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つれない興福寺 太平記其一〇

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正中の変後も後醍醐天皇の討幕の意思は変わることが無い・・・という事は、幕府も当然分かっていた筈なので、吉田定房の「天皇御謀反」との幕府への密告は、日野俊基の捕縛も迅速かつ組織的に行われていた事を考えても、幕府にとっては寝耳に水という訳ではなかった。 幕府の動きを察知した後醍醐天皇は、 1331 年、京都からの脱出を決意する。脱出先は比叡山か南都の二択。後醍醐天皇が選んだのは南都だ。 この選択は、目先、凶と出る。 後醍醐天皇は幕府の目をくらます為に、比叡山に身代わりとして花山院師賢を脱出させ、自身は南都に秘かに脱出するわけだが、頼った興福寺はつれない態度。受け入れてもらえず、仕方なく笠置山に立て籠もるという事になる。 一方、当初、後醍醐天皇が脱出してきたと思い込んでいた比叡山の方は、囲んだ幕府の軍勢を寄せ付けず、むしろ圧倒さえするが、後醍醐天皇が実際は南都に逃げたことが判明するや、兵たちの離脱が相次ぎ一気に崩壊していく。 短期的に見れば、比叡山を選んだ方が正解だったと言えるかもしれない。当面の軍事的な優位を背景に、その後のオプションの幅は広がった可能性はある。 しかし、長期的な展望に立てば、大和、吉野の豪族、悪党勢力を支持勢力として期待していた訳だから、南都の選択は決して間違っていたわけではない。事実、後年この地に南朝が開かれるのは偶然ではない。 さて、ここでちょっと興福寺の話。 奈良で祭りと言えば、それは春日若宮御祭、即ち、おん祭の事である。 毎年 12 月 17 日に行われるこの祭りは、春日大社の若宮にいらっしゃる天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)にこの世の災厄を鎮めて頂くための接待のようなものだ。 天押雲根命はこの日、春日大社の若宮から町に近いお旅所のお仮殿に移られて、そこで神楽や田楽をご覧になったり、ご馳走を食べたりして一日楽しまれるのである。 この時、神様に神楽や田楽を奉納する一団が奈良の町内を練り歩くのだが、興福寺の前に来ると、そこに居並ぶ奈良法師(僧兵)に向かって、「私ら、どこそこの誰兵衛で、神さんに何々を捧げますだ。」と名乗りを上げるのだ。南大門交名の儀という。 しかし、何で春日大社の神様に奉納するのに、いちいち興福寺の坊さんにことわりを入れなくちゃいけないかと

悪党について 太平記其九

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太平記では正中の変の後始末の後、わりとサクサクと日野俊基の鎌倉送りの段に位入っていく。吉川太平記では、この辺りに日野俊基の地方武士調略の道中の話や、楠木正成の妹の卯木夫婦の話や、吉田兼好も出てきて、小説としては結構面白いくだりだし、特に日野俊基が御所を目前にして六波羅の兵に捕縛される辺りは圧巻だが、それはさておき悪党のはなし。 (日野俊基の墓) 悪党はとはざっくり反体制の人々と言えると思うが、明確な定義は難しそうだ。 では、この鎌倉末期の反体制的な人々とはどんな人たちだったかと言うと、これをもって定義とは言わないが、ざっくり言ってお金に敏い人たちだったと思う。お金に敏いというのは、相当に乱暴な言い方だけど、悪党の中には地域の流通・交通ネットワークを持つ有力者や高利貸から、武力で荘園を乗っ取ってしまうもの、乗っ取らないまでも、傭兵になって荘園の利権争いに加担して報酬を得るものまで多種多様の人々がいて、一様に自分もしくは自分の属する集団の生活の糧を自分の力で得ようとする利に敏い、つまりお金に敏いということが一つの共通項だったと思う。こういう人たちにとっては、既存の膠着した社会体制が邪魔なのは当然で、従って必然的に反体制にならざるを得なかった。 こういう人たちが出現したのも、貨幣経済の浸透による社会の変質や、荘園の既存支配体制の変質・破綻が、それが全てでないにしろ、大きな要因だったのは間違い無いと思う。 金に敏いといえば、後醍醐天皇も同様だ。前回書いたように、 1322 年の洛中酒麹役賦課令や神人公事停止令等々、京における米価や酒の統制、課税の朝廷一本化を軸に経済を掌握する動きに出ていたわけで、この辺の感覚は悪党たちの利に敏い感覚に近いものがあったかもしれない。勿論、後醍醐天皇と悪党たちでは最終的に目指すところは違っているのだが、当面のところ既存の体制は邪魔以外の何者でもないので、共通の敵は鎌倉幕府という事になる。 反鎌倉幕府とは言いながら、体制という意味では最大の体制である朝廷のトップ後醍醐天皇と、反体制の悪党たちの何とも奇妙な結びつきは、こういう事ではなかったかと思う。 後醍醐天皇は本能的にこれを察し、日野俊基に悪党の調略を託したという事だろう。更に言えば、当時の悪党たちにとっても、天皇という存在は自らの利

正中の変 太平記其八

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1324 年正中の変が起こる。 京の公家と武士たちの反幕府計画が寝物語で幕府方に漏れて、首謀者が一網打尽になったという話で、この辺りの経緯は太平記原本にも詳しく書かれている。計画が話し合われていたのが「無礼講」という、公家も武士も身分の差なく自由に議論を戦わせる会合の様なもので、議論の後は薄着に身を包んだ遊び女を侍らせて酒池肉林というから、計画は寝物語が無かったとしても、いずれ何処かで漏れて破綻していたような気がする。普段は政治に関われない武士たちが政治の表舞台に立てるかもしれないと考えた時、そんな高揚感を自分の内だけに秘め続けることは不可能だ。 ところで、計画というのは、北野社の祭りで騒ぎを起こし、六波羅探題の兵が騒ぎの鎮圧に向かっているすきに六波羅探題を襲撃し、その後、鎌倉からの出兵に備え延暦寺・興福寺の僧兵に京の守りを固めさせるというものだ。 当時、後醍醐天皇は 1322 年の洛中酒麹役賦課令や神人公事停止令等々、京における米価や酒の統制、課税の朝廷一本化を軸に経済を掌握する動きに出ていたし、日野俊基に地方を回らせ情報収集、情宣活動をさせるなど、京・畿内の支配に向けて準備を着々と進めていて、取り敢えず京というか畿内の支配を取り戻すことに明確な計画を持っていたようだが、その後、鎌倉に攻め上り幕府を倒すことへの明確なマイルストーンがこの時期あったかどうかは少し疑問だと思う。 どうも、後醍醐天皇の中では、京を中心に西国を抑え、鎌倉に対して軍事的・経済的優位に立てば、あとは管領のような監視機関を置いて関東の武士勢力を牽制しつつも、関東の統治は実質的に幕府に任せても良いというような考えがあったのではないかと思う。                   さて、尊氏である。 この時、まだ尊氏は歴史の表舞台には現れていない。しかし、鎌倉にあって、この事件の顛末を興味深く見守っていただろうと思う。この時期に北条一門の赤橋家の登子を正室として迎え入れているが、新婚生活にうつつを抜かし世事には一向に興味なし・・・ということは、まさかない筈だ。 正中の変に対する幕府の対応はぬるい。武士側の中心、多治見、土岐一族を討伐し、公家側の中心、日野俊基、日野資朝は捕縛するも、首謀者であるはずの後醍醐天皇に対しては、自分を無関係とする

執権はつらいよ 太平記其七

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尊氏は 15 歳を迎える 1319 年に元服、名をそれまでの又太郎から、時の執権北条高時から高の字を賜り、高氏と改める。また、従五位下を受爵。 北条一門である赤橋家の登子を嫁に迎えるのもこの頃だ。 尊氏の心の底はともかくとして、 15 歳からの鎌倉での生活は、北条得宗家から気を遣われ、受爵もし、後の執権赤橋守時の妹を嫁に迎えるなど、順風満帆である。   吉川太平記では、この時期の尊氏を、多感な青春時代真っただ中でもがく若者として描いている。一夜の過ちを犯した藤夜叉もここでちゃんと登場して尊氏を煩悶させるし、執権高時に代表される北条政権への複雑な心理状態もここで描かれる。   ところで、執権高時であるが、基本的に闘犬や田楽に現を抜かす愚昧な統治者というのが世間の通り相場だ。 高時は 1304 年生まれだから 1305 年生まれの尊氏とほぼ同年齢。 1316 年 13 歳の時から執権職にあるが、幼少ゆえに実権は寄合衆の長崎氏や安達氏に握られ、ほぼ飾り物状態だった可能性も高いが、飾り物であるが故に周囲に並々ならぬ気を遣い、精神的ストレスと日々戦っていたのかもしれない。 そもそも、伊豆の地方豪族であった北条氏自体、家柄が高いわけではない。偶々源頼朝を担いで政権の補佐役となり頼朝以降の将軍職を陰で動かすことで権力を得た、そういう一族が、家柄意識の高い源氏一門をはじめとする武士階級のトップとして君臨していくには、それ相応の気配りや処世が必要だった筈で、その精神的ストレスは想像を絶するものだったとしてもおかしくない。 北条得宗家で執権になった者は義時以降 7 人いるが、 60 年以上生きたのは義時と息子の泰時くらいで、あとは 40 歳以前に没している。 40 歳まで生きたのは高時の父の貞時だが、貞時の晩年は酒宴に溺れて政治的権力は全く無い。その貞時の父、元寇時の執権時宗は 34 歳で亡くなっている。 また、北条得宗家以外の執権は初代執権時政を除き 8 人いるが、時宗の前の執権政村を除き、やはり 30 代 40 代で若死にするか、 50 代以降で亡くなっている場合は執権在任期間が一年に満たぬなど極めて短い。 鎌倉幕府滅亡と共に新田勢に滅ぼされた高時をはじめとする 4 人の執権経験者も、放っておいてもそ

すねる尊氏 太平記其六

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吉川太平記では、幕府に召し出された尊氏は足利から鎌倉に向かう事になるが、この辺りの事情は物語の方に任せるにして、ちょっと尊氏自身が置かれた状況について考えてみたい。 尊氏は足利貞氏の嫡子として生まれたわけではない。 貞氏の正室は北条一門の金沢顕時の娘で、その間に嫡男高義が生まれている。 尊氏はあくまで側室上杉清子との間に生まれた庶子に過ぎないのだが、偶々高義が若くして死んだために、嫡子として迎えられたという訳だ。 代々足利家の当主は北条一門から正室を迎えている。という事は、正室との間に生まれた子が嫡子となれば、北条の血が半分体の中に流れる訳だ。まさに北条氏とは強固な血縁によって結ばれていると言える。 ところが、同様に考えれば尊氏の場合は、北条の血は四分の一くらいしか流れていない、という事になる。しかも半分は家来筋の上杉の血である。血の濃さがそんなに重要なファクターなのかと言いたくなるが、尊氏は元服するなり、早々に北条一門赤橋家の登子を正室として迎えさせられているのは、北条氏との血縁がそれほど重いという事だ。 足利尊氏の生育地には、足利氏の本拠地である足利、幕府の有力御家人であった父貞氏がいた鎌倉、母清子の上杉氏の領国の丹波と諸説あるらしいが、鎌倉説が有力らしい。 しかし、尊氏が丹波に生まれ、頻繁に京にも出かけるような環境で生育したとしたなら、続後拾遺和歌集に入集するほどの詠み手であった尊氏の和歌の才能も含め、京の文化に慣れ親しんだ尊氏の精神構造の中に、東国武士の精神が根底にありながらも、公家文化に、国の最高権威である天皇に、そして天皇その人にもシンパシーを感じる部分も多かったとしても不思議はない。後醍醐天皇と尊氏は和歌を通じて互いに知り合う仲だったという説もあるくらいだ。 そんなことだから、尊氏は、バリバリの坂東武者にして幕府の有力御家人であり、北条一族にベッタリだった父貞氏とは折り合いが悪いという事は十分あり得ることで、貞氏は尊氏を仕方なく嫡子としながら死ぬまで家督を尊氏に譲らなかったのは、そういう事なのだろうと思う。 結果的に尊氏は足利家という源氏の本流であり、執権北条一族と血縁で結ばれ、かつ重用されている有力御家人の家督を継ぐことになるのだが、父貞氏との折り合いの悪さ、当時の北条

鑁阿寺 太平記其五

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下野足利の庄に戻った尊氏は・・・と、吉川太平記では続くのだが、実際は尊氏は一度も足利の庄に足を踏み入れたことは無い、という説もある。 それはそれとして、ここに鑁阿寺(ばんなじ)の置文と言う物がある。尊氏の祖父である足利家時が書き残した 「自分では出来なかった、北条氏に奪われた政治権力を再び源氏の本流である足利氏に取り戻す事を孫の代に託す。」 という文書だ。吉川太平記ではこの文書を読んだ尊氏が秘かに討幕の決意を固める、という事になる。 しかし実際は、仮に尊氏がこれを読んでいたとしても、 「面倒な事、書いてあるなぁ。何でよりにもよって自分が討幕しなきゃならんのか、訳が分からん。読まなかったことにしとこ。」 くらいにしか思わなかったような気がする。その証拠に、吉川太平記中でも、尊氏は弟直義にも、暫くの間この鑁阿寺文書の内容を漏らさないのである。直義の性格からいって、この内容を知ったら、うるさく兄尊氏につきまとい、討幕へ向けて背中を押し続けるに決まっているからで、尊氏にとってこれほど鬱陶しいことは無い。 そもそも、尊氏の中で、討幕というものが目的になった事があったのかどうか疑問だ。これからその辺りは考えていきたいが、どうも成り行きで幕府を倒すことになってしまった、というのがホントの所ではないかと、今は考えている。 ところで、鑁阿寺は栃木県足利市にあり、 1196 年に足利氏 3 代目の足利義兼が足利氏の居館に創建した真言宗の寺である。本堂は 1299 年に建立、その後 15 世紀前半に大規模な改築が行われ現在に至る歴史ある建造物だ。京都の寺が殆ど 15 後半の応仁の乱で焼けて建て直されたものや、それ以降の建立という事を考えれば、この寺の歴史的な価値は計り知れないと言えるかもしれない。当然のことながら、本堂は国宝である。 ここを訪れたのは夏の暑い日だったが、四方門に囲まれた境内を覆うように大木が生い茂り、参道の先にある簡素ながら堂々とした本堂は当時の坂東武者の有様を今に伝えているようで、素朴な信仰の場としての清々しさを感じる。 真言宗の寺なので本尊は大日如来だが、尊氏自身は地蔵菩薩を好んで信仰したという。 六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を巡り、苦悩の人々を、その無限の大

一夜のあやまち 太平記其四

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下野の足利の庄へ急ぎ戻る尊氏、一色馬之助主従は、途中、伊吹山の佐々木道誉の屋敷に招かれ逗留するが、そこで尊氏は既に討幕の意思を固めつつあった道誉に腹の内を探られる。   その夜、供応の宴が模様され、尊氏位は旅芸人一座の藤夜叉と一夜を過ごすことになる。これは勿論吉川英治の創作で、藤夜叉のモデルは歴史上では側室越前の局だ。しかし、越前の局にしても、その実在を裏付ける確かな資料は残っていないということなので、相手は公家や武家の子女ではなく、旅芸人や白拍子であった可能性もそれほど低くはないと思う。   やがて藤夜叉は尊氏の子を生む。後の足利直冬だが、尊氏は直冬をなかなか実子として認めようとしない。 この時代、男が女のもとに通う事が通例で、結果複数の男が一人の女のもとに通うこともあり、その場合、出来た子供の父親は女が可能性のある男の中から指名することが掟だったいう。 尊氏も、その男と女の掟の世界にいたわけだから、直冬を実子として認知するのは当然の流れだったと思う。しかし、尊氏としてみれば、ただ一夜限りの契りで、本当に自分の子かどうか疑わしかった事や、おそらく藤夜叉(越前の局)の身分が卑しかったため、実子として認知し一族に加えることをためらわざるを得なかったという事なのかもしれない。 吉川太平記では、その後も藤夜叉は尊氏を慕い続け、尊氏を追いかける。一方の尊氏は藤夜叉を遠ざけようとするが、藤夜叉の気持ちを踏みにじれ切れず、人知れず藤夜叉、直冬母子の安全を図ったりもする。 この辺りの煮え切らなさは、尊氏の一つの性格だったかもしれない。 尊氏という人間は、人に対する愛憎の感情を、整理することなく、そのまま自分の中に、あるがままに取り込んでしまい、その気持ちを場面場面で正直に出すようなところがある。それは人としての懐の深さと言えるかもしれないが、逆に優柔不断にも見える。文学者、芸術家としてならば、その性格は尊重すべきものだが、頭領、為政者としては多く問題を起こす性格でもある。   尊氏のこの性格は、後に後醍醐天皇との関係、弟直義との関係にも色濃く反映されて、問題を複雑化させている一因にもなっている。これを負の遺産というなら、室町幕府は成立当初から、その負の遺産に翻弄されていると言えるかもしれない。

尊氏の情報リテラシー 太平記其三

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京の上杉邸から難波見物に出かけた足利尊氏、一色馬之助主従は、ここで東北の騒乱(安藤氏の乱)の噂を聞き、これが世の乱れの予兆と急ぎ下野の足利の庄に戻る、という具合に物語が進む。 この時代、安藤氏の乱の舞台、青森十三湊は海運で既に日本各地と結ばれ繁栄していた。日本は中国から大量に持ち込まれる宋銭によって貨幣経済の広がりを見せていたが、東北も例外では無い。貨幣が流通すれば情報も流通する。青森十三湊の安藤氏のお家騒動が、商流に乗った形で情報として難波辺りまで伝わってくるのは不思議ではない。 貨幣の流通速度は、情報の流通速度と表裏一体だ。   情報が多くなれば、情報リテラシーが問われる。 尊氏の情報リテラシーがどれほどのものであったかは判然としないが、後に室町幕府設立につながる尊氏の行動を見ても、決して鈍くなかった事は確かだ。でなければ、鎌倉末期から室町にかけての動乱の時代を乗り切れない。しかしある意味、尊氏の情報リテラシーこそ、後の世の彼の評価を決定的に貶めた要因の一つかもしれない。 この時代、最も情報リテラシーに長けていたのは、海運・水運に深くかかわった商人と水軍だったかもしれない。水軍は情報量が豊富なだけに、相対峙する二つの勢力を天秤にかけ、分のある方に多くの場合加勢する。 例えば後の時代、足利尊氏が都での戦に敗れ九州に落ち延びた際、水軍の松浦党は、当初、形勢は尊氏に不利とみて菊池氏を中心とする南朝方に味方するが、多々良浜の戦いで尊氏有利と見るや、尊氏側にあっという間に寝返る。源平の戦いのときも、松浦党は形勢を見ながら平家方から源氏方に乗り換えている。 良く言えば、機を見るに敏。悪く言えば節操がない。   しかし、水軍に限らず、情報リテラシーに長け、それを即座に行動に反映させる人間は決して日本人の好みではない。長年培われてきた「忠孝」だとか「上下天分の理」とかが、状況判断に基づく素早い変わり身で利益を得ていく行動を是とすることを妨げている。一度手を組んだら、一度奉公したら、その相手が目を覆いたくなるほど不利な状況に追い込まれようが、そう簡単に鞍替えしてはいけない。簡単に鞍替えするような人間は、それが合理的な理由であったとしても、評価されることは難しい。まさにそれは恥の論理とでも言うべきものだ。 だから、