悪党について 太平記其九


太平記では正中の変の後始末の後、わりとサクサクと日野俊基の鎌倉送りの段に位入っていく。吉川太平記では、この辺りに日野俊基の地方武士調略の道中の話や、楠木正成の妹の卯木夫婦の話や、吉田兼好も出てきて、小説としては結構面白いくだりだし、特に日野俊基が御所を目前にして六波羅の兵に捕縛される辺りは圧巻だが、それはさておき悪党のはなし。



悪党はとはざっくり反体制の人々と言えると思うが、明確な定義は難しそうだ。

では、この鎌倉末期の反体制的な人々とはどんな人たちだったかと言うと、これをもって定義とは言わないが、ざっくり言ってお金に敏い人たちだったと思う。お金に敏いというのは、相当に乱暴な言い方だけど、悪党の中には地域の流通・交通ネットワークを持つ有力者や高利貸から、武力で荘園を乗っ取ってしまうもの、乗っ取らないまでも、傭兵になって荘園の利権争いに加担して報酬を得るものまで多種多様の人々がいて、一様に自分もしくは自分の属する集団の生活の糧を自分の力で得ようとする利に敏い、つまりお金に敏いということが一つの共通項だったと思う。こういう人たちにとっては、既存の膠着した社会体制が邪魔なのは当然で、従って必然的に反体制にならざるを得なかった。

こういう人たちが出現したのも、貨幣経済の浸透による社会の変質や、荘園の既存支配体制の変質・破綻が、それが全てでないにしろ、大きな要因だったのは間違い無いと思う。



金に敏いといえば、後醍醐天皇も同様だ。前回書いたように、1322年の洛中酒麹役賦課令や神人公事停止令等々、京における米価や酒の統制、課税の朝廷一本化を軸に経済を掌握する動きに出ていたわけで、この辺の感覚は悪党たちの利に敏い感覚に近いものがあったかもしれない。勿論、後醍醐天皇と悪党たちでは最終的に目指すところは違っているのだが、当面のところ既存の体制は邪魔以外の何者でもないので、共通の敵は鎌倉幕府という事になる。

反鎌倉幕府とは言いながら、体制という意味では最大の体制である朝廷のトップ後醍醐天皇と、反体制の悪党たちの何とも奇妙な結びつきは、こういう事ではなかったかと思う。

後醍醐天皇は本能的にこれを察し、日野俊基に悪党の調略を託したという事だろう。更に言えば、当時の悪党たちにとっても、天皇という存在は自らの利権を確保する為に利用すべき権威であって、総てを捧げ報じるべき権威ではなかったということで、言ってみればWinWinの関係だ。楠木正成は何も忠義の為だけに後醍醐天皇に就いたわけではない。

しかしこの感覚は何も悪党に限った事ではなく、鎌倉幕府方も含め、この時代の人々に共通してあった認識だったかもしれない。この悪党感覚はこれからの歴史を動かしていく。



さて、太平記も吉川太平記も物語は鎌倉に送られた日野俊基が斬られ、佐渡に流された日野資朝も斬られ、それにまつわる人間模様が描かれながら元弘の変へと繋がっていくが、いよいよ足利尊氏が歴史上に登場してくる。


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