一夜のあやまち 太平記其四


下野の足利の庄へ急ぎ戻る尊氏、一色馬之助主従は、途中、伊吹山の佐々木道誉の屋敷に招かれ逗留するが、そこで尊氏は既に討幕の意思を固めつつあった道誉に腹の内を探られる。 

その夜、供応の宴が模様され、尊氏位は旅芸人一座の藤夜叉と一夜を過ごすことになる。これは勿論吉川英治の創作で、藤夜叉のモデルは歴史上では側室越前の局だ。しかし、越前の局にしても、その実在を裏付ける確かな資料は残っていないということなので、相手は公家や武家の子女ではなく、旅芸人や白拍子であった可能性もそれほど低くはないと思う。 

やがて藤夜叉は尊氏の子を生む。後の足利直冬だが、尊氏は直冬をなかなか実子として認めようとしない。

この時代、男が女のもとに通う事が通例で、結果複数の男が一人の女のもとに通うこともあり、その場合、出来た子供の父親は女が可能性のある男の中から指名することが掟だったいう。

尊氏も、その男と女の掟の世界にいたわけだから、直冬を実子として認知するのは当然の流れだったと思う。しかし、尊氏としてみれば、ただ一夜限りの契りで、本当に自分の子かどうか疑わしかった事や、おそらく藤夜叉(越前の局)の身分が卑しかったため、実子として認知し一族に加えることをためらわざるを得なかったという事なのかもしれない。


吉川太平記では、その後も藤夜叉は尊氏を慕い続け、尊氏を追いかける。一方の尊氏は藤夜叉を遠ざけようとするが、藤夜叉の気持ちを踏みにじれ切れず、人知れず藤夜叉、直冬母子の安全を図ったりもする。
この辺りの煮え切らなさは、尊氏の一つの性格だったかもしれない。

尊氏という人間は、人に対する愛憎の感情を、整理することなく、そのまま自分の中に、あるがままに取り込んでしまい、その気持ちを場面場面で正直に出すようなところがある。それは人としての懐の深さと言えるかもしれないが、逆に優柔不断にも見える。文学者、芸術家としてならば、その性格は尊重すべきものだが、頭領、為政者としては多く問題を起こす性格でもある。 
尊氏のこの性格は、後に後醍醐天皇との関係、弟直義との関係にも色濃く反映されて、問題を複雑化させている一因にもなっている。これを負の遺産というなら、室町幕府は成立当初から、その負の遺産に翻弄されていると言えるかもしれない。

一夜のあやまちから生まれた直冬は、後に尊氏の子として迎えられるも早々に弟直義の養子に出される。そして観応の擾乱で直義が殺されると、直冬は尊氏に反旗を翻し、死ぬまで尊氏を悩ませ続ける事になる。
一夜のあやまちは、予想外に高くついたと言えるかもしれない。

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