羅刹谷 太平記其一三


ところで、足利尊氏である。

笠置、その後の赤坂城の包囲軍にその名前はあるものの、この戦いでの具体的な働きは太平記にも吉川太平記にも出てこない。

13319月(旧暦)に笠置が落ち、10月に楠木正成の赤坂城が落ちると、尊氏は12月まで京に留まるものの、朝廷に挨拶を入れることも無く、さっさと鎌倉に引き上げてしまい、花園上皇を呆れさせてしまう、というのがどうも史実らしい。

太平記ではこの辺りの記述は一切ないが、吉川太平記では翌年正月以降も羅刹谷に宿所を構え、京に残っていたという事になっている。これは尊氏と佐々木道誉との絡みを描くための物語上の設定だろう。



その羅刹谷だが、現在はその地名は残っておらず、東福寺と泉涌寺の間にある谷合の土地だったと考えられている。

羅刹谷という地名が存在したのは

「京都にかつて“羅刹谷”という恐ろしげな地名があった。恵心僧都源信が今の東福寺と泉涌寺の間にある渓谷を歩いていると、どこからともなく絶世の美女が現れ源信を誘うと、谷の奥の住処へ連れて行った。その美女は人を喰う鬼“羅刹”であった。しかし源信は美女の正体を見破っており、しかも仏道に精進しているために、羅刹は食うどころか触れることもできない。やむなく源信を谷の外まで帰したという。」

という伝承が残っているくらいだから、確かだと思う。

尊氏は羅刹谷というとんでもない所に宿所を割り当てられたように見えるが、ここから北へ進めば六波羅探題は現在でも徒歩で30分もかからぬ所にある。因みに佐々木道誉が宿所を置いた佐女牛は西本願寺の北側にあって、ここからも六波羅探題は徒歩で30分に満たない距離だから、その当時の人間の足をもってすれば時間は更に短く、馬を使えば・・・と考えると、逆に、当時の「一朝事ある時には駆け付ける」距離感というものがうかがえて面白い。



この羅刹谷で、吉川太平記では、尊氏はこの地で、伝承で高僧源信が美女に化けた羅刹に誘われたように、ある意味女難に見舞われる。尊氏、そんなにモテたのかと思うが、そこは物語である。

ひとつは藤夜叉の影。尊氏にとっては一夜の過ちのつもりが、諦めることなく後を追って来る藤夜叉に尊氏の心が乱れるというもの。相変わらず藤夜叉に対しては煮え切らない。

もうひとつは日野俊基の妻女である小右京を巡る佐々木道誉とのちょっとしたいざこざである。これは、日野俊基の処刑後、佐々木道誉から言い寄られた小右京を尊氏が助け匿った事で道誉の感情を害するというもので、たわいもないと言えばたわいもない。

しかし、吉川英治は、尊氏の女性に対する気持ちを描くことによって、周りと角を立てず、出来れば事なかれで行きたいが、最後は人として、武士としての筋を通してカッコつけてしまい、そしてそれをまた悩んでしまうという、そんな尊氏の一面を描きたかったのかもしれない。そういう意味では羅刹谷を宿所に選んだのは、吉川英治のちょっとした遊び心と言えるかもしれない。



現在、この羅刹谷の辺りに五社之瀧神社がある。東福寺の鎮守社である五社成就宮の奥宮で、滝行の修行場として有名なのだそうだ。

行ってみると、住宅街の傍にありながら、境内に入ると湿気を含んだ霊気溢れる空気に包まれ、住宅街の空気との格差は、まさに異界に来たような感覚のそれだ。ちょっと畏怖感に近いかもしれない。美女に化けた羅刹が出て来たとしてもおかしくない。


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