当てになったか三河足利党 太平記其一七


足利尊氏が幕府の命を受け133337日に鎌倉を発った時、付き従った兵は500人ほどだったと伝えられる。それが、京に着くころには3千数百人に膨れ上がっている。1221年の承久の乱の時、わずか18騎で鎌倉を出陣した北条泰時率いる鎌倉幕府軍が、美濃で後鳥羽上皇軍と対峙する際は10万を超える軍勢に膨れ上がっているという事を見ても、この時代は、当てさえあれば取り敢えず出陣したという事なんだろう。尤も北条泰時の場合はのるかそるかという感じだったろうが、尊氏の場合はかなり確かな当てがあった。

その確かな当てとは三河足利党だ。

三河は、足利家第三代当主足利義氏が守護職を得てから足利家の勢力基盤となった地だ。この地にいた吉良氏、今川氏、一色氏、仁木氏など19家が三河足利党と呼ばれていて、3千人程度の兵の供給能力はあっただろう。この面では三河足利党は尊氏にとって十分当てにできる存在だった。

しかし、果たして幕府に反旗を翻すということについては、当てにできたんだろうか。


                    

もし、三河足利党を説得しようと思えば、一番有効なのは後醍醐天皇の討幕の綸旨だが、この時点で尊氏は綸旨を受けていたのか。

太平記では尊氏が上洛した翌日、船上山の後醍醐天皇に使者を送り綸旨を得たという事になっているし、吉川太平記では上洛の途上で使者を送り、湖東の鏡宿(野洲の北西)辺りで綸旨を受けたことになっていて、どちらにしても尊氏が三河に着いた時点では綸旨は受けていないことになっている。

綸旨を受けた時期については諸説あるようだが、いずれにせよ綸旨は有効だろうが決定打にはならないという事は同じだと思う。

「綸旨に逆らったら逆賊となって地獄に落ちる。」なんてメンタリティーは当時の武士たちには無かっただろう。あっても、ちょっとヤバいかも、程度か。100年ほど前には、後鳥羽上皇が下した官宣旨をものともせずに、関東武士団は後鳥羽上皇の在京武士団を打ち破ったという実績もある。

そんな中で、三河足利党の武士たちに、堕ちたりとはいえ時の最高権力に逆らっても良いと思わせるものは何だったんだろうか。



三河は京と鎌倉を結ぶ東西交通の要所だ。

尾張、西三河は河川が集まる通行の難所であり、京の外港であった伊勢との海運は、この辺りで荷を陸路に切り替えたていたし、信濃とも塩等の海産物、木材等の流通があった。従ってこの辺りは物流が盛んで、それに伴い、畿内ほどではないにせよ、貨幣の使用を伴う流通経済がある程度進んでいたのかもしれない。

三河足利党がこうした商業・流通にかかわっていたとは思わないが、物流に伴い世の中の広範な地域からの情報が自然と耳に入ってきた筈だ。北条氏の威信が衰えて来ている事も感じていた筈だ。感覚的には、物流・金融により勢力を拡大した西国、畿内の悪党に近いような感覚を持っていたのかもしれない。

そうした環境下、三河足利党が、実際に尊氏が後醍醐天皇から綸旨を受けていなかったとしても、それが充分に期待できると判断できれば、これからの時代の自分の領国経営と将来期待できる恩賞を想像してみると、まずは尊氏の言う事を聞いておこうと考えたという事は十分にあり得る。

一方の尊氏も、事前にかなりの情報収集をやっていた筈だ。その上で、北条氏打倒勢力として、まず三河足利党を当てにしたという博打に予想通り勝ち、北条氏打倒に自信を深めたと言えるかもしれない。

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