すねる尊氏 太平記其六
吉川太平記では、幕府に召し出された尊氏は足利から鎌倉に向かう事になるが、この辺りの事情は物語の方に任せるにして、ちょっと尊氏自身が置かれた状況について考えてみたい。
尊氏は足利貞氏の嫡子として生まれたわけではない。
貞氏の正室は北条一門の金沢顕時の娘で、その間に嫡男高義が生まれている。
尊氏はあくまで側室上杉清子との間に生まれた庶子に過ぎないのだが、偶々高義が若くして死んだために、嫡子として迎えられたという訳だ。
代々足利家の当主は北条一門から正室を迎えている。という事は、正室との間に生まれた子が嫡子となれば、北条の血が半分体の中に流れる訳だ。まさに北条氏とは強固な血縁によって結ばれていると言える。
ところが、同様に考えれば尊氏の場合は、北条の血は四分の一くらいしか流れていない、という事になる。しかも半分は家来筋の上杉の血である。血の濃さがそんなに重要なファクターなのかと言いたくなるが、尊氏は元服するなり、早々に北条一門赤橋家の登子を正室として迎えさせられているのは、北条氏との血縁がそれほど重いという事だ。
足利尊氏の生育地には、足利氏の本拠地である足利、幕府の有力御家人であった父貞氏がいた鎌倉、母清子の上杉氏の領国の丹波と諸説あるらしいが、鎌倉説が有力らしい。
しかし、尊氏が丹波に生まれ、頻繁に京にも出かけるような環境で生育したとしたなら、続後拾遺和歌集に入集するほどの詠み手であった尊氏の和歌の才能も含め、京の文化に慣れ親しんだ尊氏の精神構造の中に、東国武士の精神が根底にありながらも、公家文化に、国の最高権威である天皇に、そして天皇その人にもシンパシーを感じる部分も多かったとしても不思議はない。後醍醐天皇と尊氏は和歌を通じて互いに知り合う仲だったという説もあるくらいだ。
そんなことだから、尊氏は、バリバリの坂東武者にして幕府の有力御家人であり、北条一族にベッタリだった父貞氏とは折り合いが悪いという事は十分あり得ることで、貞氏は尊氏を仕方なく嫡子としながら死ぬまで家督を尊氏に譲らなかったのは、そういう事なのだろうと思う。
結果的に尊氏は足利家という源氏の本流であり、執権北条一族と血縁で結ばれ、かつ重用されている有力御家人の家督を継ぐことになるのだが、父貞氏との折り合いの悪さ、当時の北条一門の退廃振りへの失望、京文化への淡い憧れ等から、足利家に対しても幕府に対しても、更に自分自身に対しても、ちょっとすねた感じで斜に構え、醒めた視線で距離感をとっていたのではないかと思う。
後年、尊氏が後醍醐天皇の勅諭を受けて、あっさり北条氏を裏切り討幕に舵を取ったのは、父貞氏の葬儀もろくに済ませぬうちに笠置に籠った後醍醐天皇軍の討伐に向かわせた幕府への恨みというよりは、すねた感じで斜の構え、醒めた視線で眺めた先の世の姿がそうさせたと言えるかもしれない。
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