執権はつらいよ 太平記其七
尊氏は15歳を迎える1319年に元服、名をそれまでの又太郎から、時の執権北条高時から高の字を賜り、高氏と改める。また、従五位下を受爵。
北条一門である赤橋家の登子を嫁に迎えるのもこの頃だ。
尊氏の心の底はともかくとして、15歳からの鎌倉での生活は、北条得宗家から気を遣われ、受爵もし、後の執権赤橋守時の妹を嫁に迎えるなど、順風満帆である。
吉川太平記では、この時期の尊氏を、多感な青春時代真っただ中でもがく若者として描いている。一夜の過ちを犯した藤夜叉もここでちゃんと登場して尊氏を煩悶させるし、執権高時に代表される北条政権への複雑な心理状態もここで描かれる。
ところで、執権高時であるが、基本的に闘犬や田楽に現を抜かす愚昧な統治者というのが世間の通り相場だ。
高時は1304年生まれだから1305年生まれの尊氏とほぼ同年齢。1316年13歳の時から執権職にあるが、幼少ゆえに実権は寄合衆の長崎氏や安達氏に握られ、ほぼ飾り物状態だった可能性も高いが、飾り物であるが故に周囲に並々ならぬ気を遣い、精神的ストレスと日々戦っていたのかもしれない。
そもそも、伊豆の地方豪族であった北条氏自体、家柄が高いわけではない。偶々源頼朝を担いで政権の補佐役となり頼朝以降の将軍職を陰で動かすことで権力を得た、そういう一族が、家柄意識の高い源氏一門をはじめとする武士階級のトップとして君臨していくには、それ相応の気配りや処世が必要だった筈で、その精神的ストレスは想像を絶するものだったとしてもおかしくない。
北条得宗家で執権になった者は義時以降7人いるが、60年以上生きたのは義時と息子の泰時くらいで、あとは40歳以前に没している。40歳まで生きたのは高時の父の貞時だが、貞時の晩年は酒宴に溺れて政治的権力は全く無い。その貞時の父、元寇時の執権時宗は34歳で亡くなっている。
また、北条得宗家以外の執権は初代執権時政を除き8人いるが、時宗の前の執権政村を除き、やはり30代40代で若死にするか、50代以降で亡くなっている場合は執権在任期間が一年に満たぬなど極めて短い。
鎌倉幕府滅亡と共に新田勢に滅ぼされた高時をはじめとする4人の執権経験者も、放っておいてもそれほど長生きは出来なかったような気がする。
その原因を総てストレスに求めることはできないと思うが、家柄という我が国における最強の権力エンジンに頼ることができないという宿命を抱えた一族が、権謀術数を駆使することで政治権力を維持しなければならないと思えば、いかに精神的にタフであったとしても、ある時はキリのように鋭く、ある時は土石流の様に圧倒的な力をもって襲ってくるストレスに潰されてしまうのも珍しくないのも当然と言えば当然だ。
「執権はつらいよ。」と嘆く声が聞こえる。
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