正中の変 太平記其八
1324年正中の変が起こる。
京の公家と武士たちの反幕府計画が寝物語で幕府方に漏れて、首謀者が一網打尽になったという話で、この辺りの経緯は太平記原本にも詳しく書かれている。計画が話し合われていたのが「無礼講」という、公家も武士も身分の差なく自由に議論を戦わせる会合の様なもので、議論の後は薄着に身を包んだ遊び女を侍らせて酒池肉林というから、計画は寝物語が無かったとしても、いずれ何処かで漏れて破綻していたような気がする。普段は政治に関われない武士たちが政治の表舞台に立てるかもしれないと考えた時、そんな高揚感を自分の内だけに秘め続けることは不可能だ。
ところで、計画というのは、北野社の祭りで騒ぎを起こし、六波羅探題の兵が騒ぎの鎮圧に向かっているすきに六波羅探題を襲撃し、その後、鎌倉からの出兵に備え延暦寺・興福寺の僧兵に京の守りを固めさせるというものだ。
当時、後醍醐天皇は1322年の洛中酒麹役賦課令や神人公事停止令等々、京における米価や酒の統制、課税の朝廷一本化を軸に経済を掌握する動きに出ていたし、日野俊基に地方を回らせ情報収集、情宣活動をさせるなど、京・畿内の支配に向けて準備を着々と進めていて、取り敢えず京というか畿内の支配を取り戻すことに明確な計画を持っていたようだが、その後、鎌倉に攻め上り幕府を倒すことへの明確なマイルストーンがこの時期あったかどうかは少し疑問だと思う。
どうも、後醍醐天皇の中では、京を中心に西国を抑え、鎌倉に対して軍事的・経済的優位に立てば、あとは管領のような監視機関を置いて関東の武士勢力を牽制しつつも、関東の統治は実質的に幕府に任せても良いというような考えがあったのではないかと思う。
さて、尊氏である。
この時、まだ尊氏は歴史の表舞台には現れていない。しかし、鎌倉にあって、この事件の顛末を興味深く見守っていただろうと思う。この時期に北条一門の赤橋家の登子を正室として迎え入れているが、新婚生活にうつつを抜かし世事には一向に興味なし・・・ということは、まさかない筈だ。
正中の変に対する幕府の対応はぬるい。武士側の中心、多治見、土岐一族を討伐し、公家側の中心、日野俊基、日野資朝は捕縛するも、首謀者であるはずの後醍醐天皇に対しては、自分を無関係とする弁明を受け入れ、一切の処置を行っていない。東北の安藤の乱への対応に苦慮し、ここに大きな労力をつぎ込みつつも、他方、引き続き幕府内では権力闘争に明け暮れている状況では、後醍醐天皇、朝廷に対する断固たる処置は、それに費やされる政治的資源を考えれば、無理という外ない。
尊氏は、この幕府の状況、まさに統治能力の限界をさらけ出し、倒壊に向かって進んで行きそうな姿を、現実のものとしてしっかりと観察していた筈である。
さらに、正中の変という、失敗には終わったが反幕府計画が実際に起こったという事件で、幕府が倒れる可能性があるという事が、尊氏の意識の中で、いや尊氏に限らず目先の効く武士たちの意識の中で、想像から現実へと変わっていく。正中の変の歴史的意義を問うなら、それは当時の武士・公家の意識の中で、討幕が現実化したという事なのかもしれない。
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