鑁阿寺 太平記其五
下野足利の庄に戻った尊氏は・・・と、吉川太平記では続くのだが、実際は尊氏は一度も足利の庄に足を踏み入れたことは無い、という説もある。
それはそれとして、ここに鑁阿寺(ばんなじ)の置文と言う物がある。尊氏の祖父である足利家時が書き残した
「自分では出来なかった、北条氏に奪われた政治権力を再び源氏の本流である足利氏に取り戻す事を孫の代に託す。」
という文書だ。吉川太平記ではこの文書を読んだ尊氏が秘かに討幕の決意を固める、という事になる。
しかし実際は、仮に尊氏がこれを読んでいたとしても、
「面倒な事、書いてあるなぁ。何でよりにもよって自分が討幕しなきゃならんのか、訳が分からん。読まなかったことにしとこ。」
くらいにしか思わなかったような気がする。その証拠に、吉川太平記中でも、尊氏は弟直義にも、暫くの間この鑁阿寺文書の内容を漏らさないのである。直義の性格からいって、この内容を知ったら、うるさく兄尊氏につきまとい、討幕へ向けて背中を押し続けるに決まっているからで、尊氏にとってこれほど鬱陶しいことは無い。
そもそも、尊氏の中で、討幕というものが目的になった事があったのかどうか疑問だ。これからその辺りは考えていきたいが、どうも成り行きで幕府を倒すことになってしまった、というのがホントの所ではないかと、今は考えている。
ところで、鑁阿寺は栃木県足利市にあり、1196年に足利氏3代目の足利義兼が足利氏の居館に創建した真言宗の寺である。本堂は1299年に建立、その後15世紀前半に大規模な改築が行われ現在に至る歴史ある建造物だ。京都の寺が殆ど15後半の応仁の乱で焼けて建て直されたものや、それ以降の建立という事を考えれば、この寺の歴史的な価値は計り知れないと言えるかもしれない。当然のことながら、本堂は国宝である。
ここを訪れたのは夏の暑い日だったが、四方門に囲まれた境内を覆うように大木が生い茂り、参道の先にある簡素ながら堂々とした本堂は当時の坂東武者の有様を今に伝えているようで、素朴な信仰の場としての清々しさを感じる。
真言宗の寺なので本尊は大日如来だが、尊氏自身は地蔵菩薩を好んで信仰したという。
六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を巡り、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み救う地蔵菩薩は、哲学的な真言密教の本尊である大日如来に比べると、かなり大雑把で庶民的な感じがするが、そこが何とも尊氏らしい。
京都の木津川に日本最大の地蔵菩薩の石像がある。確かにデカイ。静かに微笑みをたたえる人の好さそうなお顔をしているが、デカいが故にちょっと間が抜けて見えたりもする。大丈夫だろうかと思ったりもするが、このお地蔵様を見る度にいつも尊氏を思い起こす。私にとっての尊氏のイメージそのものなのだ。
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