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九州諸侯の事情に賭ける尊氏 太平記其三六

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  さて、 1336 年 3 月の多々良ヶ浜の奇跡である。 わずか千にも満たない足利軍が、数万を要する菊池氏を中心とする朝廷方を、博多の東、多々良ヶ浜で打ち破った奇跡的な戦い、ということだが、ここには数字のトリックと相応の理由がある。 まず数字のトリック。足利数百、朝廷方数万というは軍記物特有の誇張だが、実態は、朝廷方は約 2 万程度の兵力で、中心にいた菊池勢は 300 騎程度と言われている。菊池勢以外は阿蘇氏を別とすれば、戦いの情勢を見て帰趨を決めるというような武士ばかりで、その中には足利氏に好意的な武士たち、菊池氏を嫌っている武士たちも多分に含まれている。そうなると、朝廷方の信頼に足る兵力は、足利勢とほぼ変わらないということになる。 それに、兵力で圧倒的に有利にたち、勝ちを確信していた菊池方に対し、この一戦で負けたら後が無いと思っていた足利勢の気迫は、はるかに朝廷方を上回っていたと思う。 気迫が全く違うほぼ同数の軍が強風下の砂地で風上・風下に分かれてぶつかったら、風上にあって気迫にも勝った足利勢に利があったとしてもおかしくない。   相応の理由とは、九州には裏切りの土壌がすでに醸成されていたということだ。 まずは、菊池氏に対する感情的な反感だ。鎌倉幕府倒幕時に朝廷に対して真っ先に忠誠を示したのは菊池氏だったため、倒幕後の恩賞は九州においてはほぼ菊池氏が独占したと言ってよい。これに対して、大友、少弐などは、九州探題攻めにそれなりの功はあった筈だが、恩賞は微々たるもので、それが菊池に対する嫉妬と建武新政権に対する不満として残った。 また、京在番の大友、少弐の武士たちは、九州に戻ると「足利殿の人物は大きい。新田殿とは比較にならぬ。」などと吹聴していたと言われ、九州諸侯の光厳上皇の院宣を手にした尊氏に対する期待感は、建武新政権に対する失望とは裏腹に、自ずと高まっていたと思われる。 更に、最期の鎮西探題、北条英時は善政をひいたとされ、九州諸侯の間でも評判は良かった。時の勢いで鎮西探題を攻め滅ぼした九州諸侯だが、当初から積極的に北条氏と敵対した訳ではない。事実、 1333 年 3 月に、後醍醐天皇の綸旨を受けた菊池武時が鎮西探題を襲った時には、大友、少弐を始めとする多くの九州諸侯はこれに加わらず、結果、菊池武時は逆に北条方に...

奇跡再び多々良ヶ浜 太平記其三五

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  さて、多々良ヶ浜の奇跡である。 足利尊氏が室ノ津で光厳上皇の院宣を手に入れ九州に向かってから、多々良ヶ浜の戦いまでは以下のように時が流れる。 1336 年 2 月終、足利尊氏は海路赤間関に着き、少弐貞経・頼尚親子に迎えられる。 この後、太宰府に戻った少弐貞経は、肥後から攻めあがってきた菊池武敏に攻撃され、居城の有智山城に引いた。この際、氏軍のために用意した馬や武具は灰燼と化した。菊池勢は有智山にも攻め寄せ、貞経は一族家人五百人あまりとともに自害。 2 月 29 日、足利勢は筑前芦屋ノ津(福岡県芦屋町)に到着、 少弐頼尚に迎えられ、 3 月 1 日宗像大宮司の館に入る。 その前日、宝満山麓の有智山城の戦いで、少弐頼尚の父貞経を打ち破った菊池武敏・阿蘇大宮司惟直・秋月入道寂心等は陣を筥崎まで進めた。 3 月 2 日朝、足利尊氏・直義は宗像を出発し、午後香椎宮に到着。 菊池勢と足利勢は多々良潟で行き会った。菊池勢を中心とする朝廷方は 2 万の大軍を擁し、北向きに布陣。足利勢(尊氏、直義、大友、宇都宮、千葉、島津等)の 300 余騎及び少弐の手勢 500 騎( 1200 騎とも伝えらえる)は多々良川をはさんで南向きに布陣。太平記によれば、尊氏軍の半数は馬にも乗らず鎧も着けていなかったという。 戦端は、菊池勢からなる朝廷方が、川を渡って足利方に攻めかかることで開かれるが、折しも北からの烈風が砂を巻き上げ、南から攻める菊池勢の勢いを削ぐ一方、足利方は追い風を利し一気に朝廷方に攻め込む。 この時、菊池、阿蘇勢以外の九州諸侯は戦いに積極的に加わろうとせず、様子見の状態であったが、足利直義の勢いを見るや、搦手にいた松浦党や神田党を初めとするいくつかの武家が足利側に鞍替えし、そのまま菊池・阿蘇勢を攻め立てたため、菊池勢は総崩れとなり、戦いの帰趨は決した。 足利直義軍は勝ちに乗じて博多沖浜まで攻めかけ、博多から菊池・阿蘇勢を駆逐、足利尊氏は、翌3日には大宰府を落とし、その後僅か1ヶ月で九州を平定することになる。   こうして、九州落ちという人生で最大のピンチを足利尊氏は奇跡的に乗り切ることになるわけだが、尊氏は、この奇跡をある程度予見していた節がある。 尊氏は、意外と慎重な人間で、戦いにおいてはどんな状況においても...

逃げて冴える尊氏 ブランド作り餌を撒く 太平記其三四

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  1336 年 2 月 13 日、新田義貞方の軍勢に囲まれた足利尊氏は、大友貞宗の進言により、兵庫の港から九州に向けて落ちる。 九州落ちにあたり、尊氏はしたたかにも二つの手を打っている。 一つは光厳上皇の院宣。その院宣は、 2 月 26 日に寄港した室ノ津で薬師丸と日野俊賢によってもたらされた。新田義貞とその与党を誅伐せよと院宣によって、新田義貞方との戦いの大義名分を手に入れ、源氏の嫡流である足利家と両輪で、足利ブランドを作ったというわけだ。 二つ目は「元弘没収地返付令」だ。尊氏は、兵庫を落ちる前に、全国に向け元弘没収地返付令を出す。この令は、北条与党に対する所領没収令によって没収された所領を返付するもので、後醍醐天皇の土地政策を否定し、鎌倉幕府の秩序に戻そうとするもの。これは、公家主導の後醍醐政権を否定し、武家主導の足利政権を成立させるという明確なメッセージに他ならない。つまり、後醍醐政権成立によって割を食い、特に領地問題で不満を募らせている武家たちに対する餌のようなものだ。 そして、この時期、尊氏は軍略家として冴えている。九州に落ちている最中の室ノ津で軍議を開き、播州に赤松氏を残し、備中に今川、安芸に小早川、長門に厚東氏、周防に大友、四国に細川等々、中国各地に配下の武将を配し、後醍醐天皇方の軍勢への防戦と来たるべき京への侵攻の足掛かりを作っている。   逃げているのにこの余裕。一つは光厳上皇の院宣を得てホッと一息ついたという事もあろうが、北条氏討伐の頃から大友氏とは連携をとっており、大友氏を通じてある程度九州の情勢を見極めていたという事もあるのかもしれない。 例えば、筑紫で尊氏を迎え入れる宗像氏は、建武新政時の後醍醐天皇の恩賞政策の中で、逆に領地を失い、後醍醐天皇に対し不満を募らせていたので、「元弘没収地返付令」を出した尊氏に対しても好意を持っていた。おそらく、こうした事例は他にもいくつもあり、潜在的な親尊氏勢力は九州に必ず存在する、と尊氏は読んだと思う。 時は少し遡るが、後醍醐天皇の綸旨を受けた菊池武時が 1333 年 3 月 13 日に鎌倉幕府鎮西探題に対し反旗を翻した際、武時から使者を送られても慎重な姿勢を崩さなかった大友、少弐等の九州の雄族は、 4 月 29 日の尊氏の大友、阿蘇、島津への書状を受け、漸...

夢の続きを見せてくれる相手 太平記其三三

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  「そして神戸」という歌がある。千家和也作詞、浜圭介作曲で前川清が歌ってた。 「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我が身が惨めになるだけ  神戸 船の灯うつす 濁り水の中に 靴を投げ落とす  そして ひとつが 終わり そしてひとつが 生まれ  夢の続き 見せてくれる 相手 捜すのよ」という歌詞だ。 これって神戸を兵庫に変えたたら、兵庫から船で逃れた時の足利尊氏の心情そのものだ。 もっとも、この時には「夢の続きを見せてくれる相手」は先帝光厳と分かっていた。 1336 年 1 月初めに京に攻め込むまでは、後醍醐天皇をこちら側に取り込もうと考えていた尊氏だが、後醍醐天皇に比叡山に逃げられ、挙句に後醍醐天皇方との戦にも敗れ、京から丹波篠村に落ちる羽目となっては、後醍醐天皇の取り込みは断念せざるを得ない。一方、味方の武将に対して、その戦意高揚のためにも、自らの正当性を担保する何かを得る必要性が出てきた。 そして、それは「先帝光厳上皇の院宣」だという結論に達した時期は、 1 月 30 日に丹波篠村に落ち、そこから摂津に向かう途中、三草山を越えている最中の 2 月 2 日の事だと太平記ではなっている。この日、尊氏は同道していた薬師丸に、日野賢俊に仲介を頼み光厳上皇の院宣を入手してくるよう命ずるのだ。薬師丸とは、尊氏の小姓で、熊野山の別当法橋道有の末子だが、別当家は日野家と縁があったと伝えられる。また、日野賢俊は、鎌倉幕府の討伐に奔走し佐渡で処刑された日野資朝とは兄弟である。 大覚寺統の後醍醐天皇の為に働いたその日野が、なんで持明院統の光厳上皇との仲介が出来るのかと不思議に思うが、実は日野資朝、賢俊の父である日野俊光は持明院統の重臣であって、だからこそ賢俊は持明院統の光厳上皇に近づけたという事だ。逆に醍醐に接近した資朝は日野家にとってむしろ反逆児で、その為に俊光から勘当されたという経緯にある。お公家さんも色々だ。   で、薬師丸は日野賢俊を介して首尾よく光厳上皇の「新田義貞とその与党を誅伐せよ」との院宣を手に入れるのだが、いつ尊氏のもとにそれを届けたのか。太平記では、尊氏が九州から京に再び攻め上る途中で厳島神社に参篭した 5 月 3 日という事になっているが、吉川太平記では、尊氏が九州に向かう途中で立ち寄った室の津で 2...

兵庫の奇跡 太平記其三二

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  1336 年 1 月の京での戦いで敗れ、丹波篠村に撤退した足利尊氏は、敗残兵をまとめると三草山を越えて兵庫に落ちる。ここで体制を整え、弟直義に 16 万騎(太平記によれば)を与えて京奪還を目指すが、 2 月7日に豊島河原(大阪箕面の辺り)の戦いに敗れ、逆に兵庫で後醍醐天皇方に追い込まれる形となり、尊氏は絶望の淵に立たされることになる。 兵庫の福海寺には、「兵庫に逃げてきた尊氏は、新田義貞の兵に追われ、福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を隠して難を逃れた。」という伝承が残っているが、それほど尊氏は追い込まれていたという事だ。 しかし、ここで不可解にも後醍醐方の攻撃の手が鈍る。 湊川方面から攻め寄せた楠正成は、尊氏と睨み合いの末、一戦交えることなく戦線を離脱する。それに代わるように芦屋方面から北畠顕家が、六甲方面から新田義貞が軍を進め、圧倒的な兵力で足利軍を攻めたてるが、足利尊氏が耐え切れず大内氏・厚東氏が派遣した長門・周防の兵船に乗り海上へと逃れ、足利の兵達も西を目指して落ちていくのを目前にしながら、新田義貞も北畠顕家も、これを追撃して殲滅するという事をせず、兵馬を休めてしまうのだ。2月13日の事である。 まるで、第二次世界大戦時でダンケルクに追い込んだ連合軍を前に、突然進撃を止めてしまったドイツ軍の様だ。いわゆるダンケルクの奇跡だ。結果、連合軍はダンケルクから英国に逃れ、逃れた連合軍は後にノルマンディーに上陸し、逆にドイツ軍をドイツ本国へと追い込んでいくことになる。 兵庫から九州に逃れた尊氏も、後に再びこの地に上陸し、新田義貞、楠正成を打ち破り、再び京へ軍を進めることになる。   圧倒的な勝利が確信されている場合、軍の統率者は、勝利よりむしろ兵の損耗を優先して考えてしまうのだろうか。 ダンケルクの場合は、空軍相ゲーリンクが空爆による連合軍の殲滅を主張し、それを実行しようとしたが、悪天候に阻まれて結果を出せなかったのが理由の一つと言われている。ヒトラーがゲーリンクの主張を受け入れたのは、長期戦に備えて、陸軍の突入による兵の損耗を抑えておきたかった、という事なのかもしれない。 新田義貞・北畠顕家の場合、既に勝利を確信し、尊氏の再起は無理だと判断し、深追いを避けたという事なのだろうか。特に北畠顕家の場合、奥州から...

京は守りづらい 太平記其三一

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  太平記の太の字も知らなかった頃、詩仙堂に行く途中、一乗寺下り松を通りかかったら、「宮本武蔵・吉岡一門決闘之地」の石碑の横に、「大楠公戦陣跡」という石碑があって、何でこんな所に?と思ったことがある。その頃は、楠正成といっても、千早城と湊川くらいしか思い浮かばない。 この一乗寺という場所は、そこから 3 , 4 キロ北に行けば八瀬があり、その先が比叡山となる場所だ。だから、 1336 年 1 月に京を占拠した足利尊氏を比叡山に立て籠もった後醍醐天皇方が攻めようと思えば、軍勢の展開が可能な地形からいっても、この地に布陣するのは当然だ。そこに布陣したのが、偶々楠正成だったという事だ。 しかし、京という町はつくづく守り難い町だと思う。そこら中に攻め口がある。その昔、 663 年の白村江の戦いで敗れ、唐の軍事的脅威に晒されていた天智天皇が、飛鳥から遷都する先に選んだのが、京ではなく、その先の山を越えた大津近江京だったのは、そんな事が理由の一つだったんじゃないかと思うが、それはそれとして。 1336 年 1 月初めの足利尊氏の京攻略は、瀬田、宇治、山崎の三方向から攻め立てている。必然的に防衛側は兵力が分散され、一か所でも突破されてしまえば、もう京を捨てて逃げるしかなく、事実、 1 月 9 日に新田軍が山崎を突破されるや、後醍醐天皇はその時点で比叡山に逃れている。 1336 年 1 月の後醍醐天皇方の京奪還戦は、 1 月 半( 15 日頃)に北畠顕家軍が奥州から合流すると、 16 日に足利軍の比叡攻略の拠点だった圓城寺(三井寺)の細川定禅軍と山科の高師直軍を後醍醐天皇方が攻め、これに勝利する事から始まる。 1 月 27 日には、 北から一乗寺に楠正成、吉田山(銀閣寺がある辺り)に北畠顕家、粟田口(八坂神社の北)に新田義貞と布陣していた後醍醐天皇方が、京の東側三方から一気に三条河原に布陣していた足利尊氏を攻め立てる。この日の主戦場は、一条下り松から下加茂神社の糺の森辺りと言われているが、凄まじい激戦で、尊氏には伯父にあたる上杉憲房が討ち死にしている。翌日には北畠顕家軍が尊氏の本陣に迫る猛攻を敢行し、 丹波篠村へと尊氏を追い落とし、 1 月末には後醍醐天皇が京に還幸した。   ところで、尊氏にとって、 1336 年 1 月は戦いに明け暮れる...

ここでちょっと新田義貞 太平記其三〇

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  太平記では、新田義貞は足利尊氏のライバルとして描かれている。特に、中先代の乱をきっかけに起こる「足利尊氏 VS 後醍醐天皇」という図式の中で、新田義貞は後醍醐天皇の軍事力の象徴として、朝廷軍を率いて尊氏と対峙するのである。   足利氏も新田氏も、源義家の四男の義国の系譜をひく、源氏本流の家柄だ。 しかし、鎌倉時代を通じて、御家人の筆頭として北条氏から遇された足利氏に対して、新田氏は他の御家人の中に埋もれてしまっている。そもそも、源頼朝と親戚関係にあった足利義兼以降、足利氏の当主は代々北条氏一族と姻戚関係を結び、その地位と一族の保全を図った。一方新田氏は、そうした姻戚関係戦略が不調で、むしろ足利氏に接近することで、その郎党として一族の保全を図った。 従って、新田氏は足利氏にとっては一郎党に過ぎず、ざっくり言ってしまえば主従関係にあったわけだ。   元弘の乱で新田義貞が討幕の兵を挙げたのは、太平記によれば、幕府の楠正成など西国の反乱分子を討伐るための軍事資金の徴収に来た幕吏を、その徴求額があまりに高額だったのと(6万貫と言われ、現在の金額で3~4億円程度か?)、その態度があまりに無礼だったので、義貞が斬ってしまい、これはヤバいぞ、このままでは幕府の軍勢にやられてしまうから、その前にやってしまおうと決意したのが理由だという事になっている。 だが、最近の研究で言われているように、足利氏と新田氏は主従関係にあったのだから、既に六波羅攻めを決意していた尊氏が討幕の命令書を義貞に送り付け、義貞がそれに従ったというのが事実に近いような気がする。新田軍は挙兵後、鎌倉から逃れてきた尊氏の嫡男義詮と合流することで、関東の武家たちを糾合し得る朝廷軍として武蔵に侵攻、半月ほどで鎌倉を攻め落とすことになる。この鎌倉攻略で、義貞は、足利の郎党の中でも無視できぬ特別な存在になりえた、それどころか、北条氏の本拠を落とした自分は後醍醐天皇から見れば尊氏とほぼ同格になったと、都合の良い「勘違い」をしたのかもしれない。 で、鎌倉で戦後処理を行っていた義貞であるが、鎌倉攻めの実質な指揮者であり、武功一番の自分より、どうも武家の連中の気持ちが足利義詮に傾いていることを日に日に感じる事になり、鎌倉の戦後処理・統治の実権も尊氏が送った細川三兄弟の手に次第...