奇跡再び多々良ヶ浜 太平記其三五
さて、多々良ヶ浜の奇跡である。
足利尊氏が室ノ津で光厳上皇の院宣を手に入れ九州に向かってから、多々良ヶ浜の戦いまでは以下のように時が流れる。
1336年2月終、足利尊氏は海路赤間関に着き、少弐貞経・頼尚親子に迎えられる。
この後、太宰府に戻った少弐貞経は、肥後から攻めあがってきた菊池武敏に攻撃され、居城の有智山城に引いた。この際、氏軍のために用意した馬や武具は灰燼と化した。菊池勢は有智山にも攻め寄せ、貞経は一族家人五百人あまりとともに自害。
2月29日、足利勢は筑前芦屋ノ津(福岡県芦屋町)に到着、少弐頼尚に迎えられ、
3月1日宗像大宮司の館に入る。
その前日、宝満山麓の有智山城の戦いで、少弐頼尚の父貞経を打ち破った菊池武敏・阿蘇大宮司惟直・秋月入道寂心等は陣を筥崎まで進めた。
菊池勢と足利勢は多々良潟で行き会った。菊池勢を中心とする朝廷方は2万の大軍を擁し、北向きに布陣。足利勢(尊氏、直義、大友、宇都宮、千葉、島津等)の300余騎及び少弐の手勢500騎(1200騎とも伝えらえる)は多々良川をはさんで南向きに布陣。太平記によれば、尊氏軍の半数は馬にも乗らず鎧も着けていなかったという。
戦端は、菊池勢からなる朝廷方が、川を渡って足利方に攻めかかることで開かれるが、折しも北からの烈風が砂を巻き上げ、南から攻める菊池勢の勢いを削ぐ一方、足利方は追い風を利し一気に朝廷方に攻め込む。
この時、菊池、阿蘇勢以外の九州諸侯は戦いに積極的に加わろうとせず、様子見の状態であったが、足利直義の勢いを見るや、搦手にいた松浦党や神田党を初めとするいくつかの武家が足利側に鞍替えし、そのまま菊池・阿蘇勢を攻め立てたため、菊池勢は総崩れとなり、戦いの帰趨は決した。
足利直義軍は勝ちに乗じて博多沖浜まで攻めかけ、博多から菊池・阿蘇勢を駆逐、足利尊氏は、翌3日には大宰府を落とし、その後僅か1ヶ月で九州を平定することになる。
こうして、九州落ちという人生で最大のピンチを足利尊氏は奇跡的に乗り切ることになるわけだが、尊氏は、この奇跡をある程度予見していた節がある。
尊氏は、意外と慎重な人間で、戦いにおいてはどんな状況においても、基本的に蛮勇と勢いに任せて戦うということが無い。戦いにあたり、情報収集と分析を怠ることはほぼ無く、その分析力は卓越していると言え、勝利だけでなく敗戦のシナリオも描いていたと思う。何度も書いてきたが、この情報リテラシーこそ尊氏の強みだ。
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