九州諸侯の事情に賭ける尊氏 太平記其三六
さて、1336年3月の多々良ヶ浜の奇跡である。
わずか千にも満たない足利軍が、数万を要する菊池氏を中心とする朝廷方を、博多の東、多々良ヶ浜で打ち破った奇跡的な戦い、ということだが、ここには数字のトリックと相応の理由がある。
それに、兵力で圧倒的に有利にたち、勝ちを確信していた菊池方に対し、この一戦で負けたら後が無いと思っていた足利勢の気迫は、はるかに朝廷方を上回っていたと思う。
気迫が全く違うほぼ同数の軍が強風下の砂地で風上・風下に分かれてぶつかったら、風上にあって気迫にも勝った足利勢に利があったとしてもおかしくない。
相応の理由とは、九州には裏切りの土壌がすでに醸成されていたということだ。
まずは、菊池氏に対する感情的な反感だ。鎌倉幕府倒幕時に朝廷に対して真っ先に忠誠を示したのは菊池氏だったため、倒幕後の恩賞は九州においてはほぼ菊池氏が独占したと言ってよい。これに対して、大友、少弐などは、九州探題攻めにそれなりの功はあった筈だが、恩賞は微々たるもので、それが菊池に対する嫉妬と建武新政権に対する不満として残った。
また、京在番の大友、少弐の武士たちは、九州に戻ると「足利殿の人物は大きい。新田殿とは比較にならぬ。」などと吹聴していたと言われ、九州諸侯の光厳上皇の院宣を手にした尊氏に対する期待感は、建武新政権に対する失望とは裏腹に、自ずと高まっていたと思われる。
更に、最期の鎮西探題、北条英時は善政をひいたとされ、九州諸侯の間でも評判は良かった。時の勢いで鎮西探題を攻め滅ぼした九州諸侯だが、当初から積極的に北条氏と敵対した訳ではない。事実、1333年3月に、後醍醐天皇の綸旨を受けた菊池武時が鎮西探題を襲った時には、大友、少弐を始めとする多くの九州諸侯はこれに加わらず、結果、菊池武時は逆に北条方に討ち取られてしまうという結果となった。因みに、北条英時は北条(赤橋)守時、登子の兄弟で、足利尊氏とは義理の兄弟の関係にある。
つまり、九州諸侯は、決して建武新政権に対して強い忠誠心を持っていた訳ではないという事だ。
足利尊氏は、大友、島津、少弐など九州諸侯の親派を通じて、この辺りの事情は九州上陸前から察知していただろうから、九州での捲土重来に絶対の自信は無いにしろ、勝負を賭ける価値は充分にあると踏んでいたとしても頷ける。
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