夢の続きを見せてくれる相手 太平記其三三
「そして神戸」という歌がある。千家和也作詞、浜圭介作曲で前川清が歌ってた。
「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我が身が惨めになるだけ
神戸 船の灯うつす 濁り水の中に 靴を投げ落とす
そして ひとつが 終わり そしてひとつが 生まれ
夢の続き 見せてくれる 相手 捜すのよ」という歌詞だ。
これって神戸を兵庫に変えたたら、兵庫から船で逃れた時の足利尊氏の心情そのものだ。
もっとも、この時には「夢の続きを見せてくれる相手」は先帝光厳と分かっていた。
1336年1月初めに京に攻め込むまでは、後醍醐天皇をこちら側に取り込もうと考えていた尊氏だが、後醍醐天皇に比叡山に逃げられ、挙句に後醍醐天皇方との戦にも敗れ、京から丹波篠村に落ちる羽目となっては、後醍醐天皇の取り込みは断念せざるを得ない。一方、味方の武将に対して、その戦意高揚のためにも、自らの正当性を担保する何かを得る必要性が出てきた。
そして、それは「先帝光厳上皇の院宣」だという結論に達した時期は、1月30日に丹波篠村に落ち、そこから摂津に向かう途中、三草山を越えている最中の2月2日の事だと太平記ではなっている。この日、尊氏は同道していた薬師丸に、日野賢俊に仲介を頼み光厳上皇の院宣を入手してくるよう命ずるのだ。薬師丸とは、尊氏の小姓で、熊野山の別当法橋道有の末子だが、別当家は日野家と縁があったと伝えられる。また、日野賢俊は、鎌倉幕府の討伐に奔走し佐渡で処刑された日野資朝とは兄弟である。
大覚寺統の後醍醐天皇の為に働いたその日野が、なんで持明院統の光厳上皇との仲介が出来るのかと不思議に思うが、実は日野資朝、賢俊の父である日野俊光は持明院統の重臣であって、だからこそ賢俊は持明院統の光厳上皇に近づけたという事だ。逆に醍醐に接近した資朝は日野家にとってむしろ反逆児で、その為に俊光から勘当されたという経緯にある。お公家さんも色々だ。
で、薬師丸は日野賢俊を介して首尾よく光厳上皇の「新田義貞とその与党を誅伐せよ」との院宣を手に入れるのだが、いつ尊氏のもとにそれを届けたのか。太平記では、尊氏が九州から京に再び攻め上る途中で厳島神社に参篭した5月3日という事になっているが、吉川太平記では、尊氏が九州に向かう途中で立ち寄った室の津で2月26日に受け取ったという事になっている。梅松論では備後の鞆だけど、それはどうでもよいか。
九州で尊氏が奇跡的な勝利をおさめることを考えると、九州に着く前に院宣を入手して味方を鼓舞した、という方が当たっているような気がする。
ところで、「光厳上皇の院宣」を得るという、いわば逆転の発想は尊氏の考えだったのだろうか。赤松則村(円心)の献策という説もあるようだが、こういう策謀は弟の直義や上杉憲房ないしは上杉重能あたりが考えそうで、1月に京に攻め込む段階でプランBとして持っていたのではないかという気がする。そうでなければ、1月30日に京から追い落とされ、その二日後の2月2日に院宣を入手すべく薬師丸を走らせるというのは、尊氏にしてはあまりに手際が良すぎる。
いずれにせよ、「光厳上皇の院宣」を無事手に入れた尊氏は、夢の続きを見る事が出来たわけである。
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