京は守りづらい 太平記其三一

 

太平記の太の字も知らなかった頃、詩仙堂に行く途中、一乗寺下り松を通りかかったら、「宮本武蔵・吉岡一門決闘之地」の石碑の横に、「大楠公戦陣跡」という石碑があって、何でこんな所に?と思ったことがある。その頃は、楠正成といっても、千早城と湊川くらいしか思い浮かばない。

この一乗寺という場所は、そこから34キロ北に行けば八瀬があり、その先が比叡山となる場所だ。だから、13361月に京を占拠した足利尊氏を比叡山に立て籠もった後醍醐天皇方が攻めようと思えば、軍勢の展開が可能な地形からいっても、この地に布陣するのは当然だ。そこに布陣したのが、偶々楠正成だったという事だ。


しかし、京という町はつくづく守り難い町だと思う。そこら中に攻め口がある。その昔、
663年の白村江の戦いで敗れ、唐の軍事的脅威に晒されていた天智天皇が、飛鳥から遷都する先に選んだのが、京ではなく、その先の山を越えた大津近江京だったのは、そんな事が理由の一つだったんじゃないかと思うが、それはそれとして。

13361月初めの足利尊氏の京攻略は、瀬田、宇治、山崎の三方向から攻め立てている。必然的に防衛側は兵力が分散され、一か所でも突破されてしまえば、もう京を捨てて逃げるしかなく、事実、19日に新田軍が山崎を突破されるや、後醍醐天皇はその時点で比叡山に逃れている。

13361月の後醍醐天皇方の京奪還戦は、1半(15日頃)に北畠顕家軍が奥州から合流すると、16日に足利軍の比叡攻略の拠点だった圓城寺(三井寺)の細川定禅軍と山科の高師直軍を後醍醐天皇方が攻め、これに勝利する事から始まる。

127日には、北から一乗寺に楠正成、吉田山(銀閣寺がある辺り)に北畠顕家、粟田口(八坂神社の北)に新田義貞と布陣していた後醍醐天皇方が、京の東側三方から一気に三条河原に布陣していた足利尊氏を攻め立てる。この日の主戦場は、一条下り松から下加茂神社の糺の森辺りと言われているが、凄まじい激戦で、尊氏には伯父にあたる上杉憲房が討ち死にしている。翌日には北畠顕家軍が尊氏の本陣に迫る猛攻を敢行し、丹波篠村へと尊氏を追い落とし、1月末には後醍醐天皇が京に還幸した。

 

ところで、尊氏にとって、13361月は戦いに明け暮れる日々が続いたわけだが、16日の山科での敗戦から27日の京市街での戦いまでの10日余り、尊氏軍は目立った動きをしていない。山科に高師直を救援する軍を送るでもなく、京三条辺りに留まり続けている。この間、尊氏は陣立てをしていたというのだが、10日には比叡に撤退する名和長年に内裏まで燃やされてしまった京では、数万の兵を養うだけの食糧確保も難しく、前年末からの連戦で兵の疲労も激しく、兵を動かそうにも動かしようがなかったのが真相、と吉川英治は太平記の中で述べていて、これはかなり事実に近いんじゃないかと思ったりする。

京の町人たちは、東国から足利軍が攻め上って来ることを知るや、かなりの人数が京から避難しただろうし、その際には当然食料をしっかり持って行った筈で、同様に、後醍醐天皇方の武将たちも食糧を洗いざらい持ち出したと考えられ、その時間は十分にあった。

京を軍事的な拠点として維持しようとすれば、そこには数万人単位での駐留兵が必要になる。京での略奪による食料調達に限界があるとすれば、数万の兵が消費する大量の食糧を確保する術、インフラの確保が必要で、これはとんでもなく大変な作業となり、時間も手間もかかり、現実問題として不可能に近い。

それに加えて、防御すべき攻られ口たくさん。

京は守りづらい。

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