ここでちょっと新田義貞 太平記其三〇
太平記では、新田義貞は足利尊氏のライバルとして描かれている。特に、中先代の乱をきっかけに起こる「足利尊氏VS後醍醐天皇」という図式の中で、新田義貞は後醍醐天皇の軍事力の象徴として、朝廷軍を率いて尊氏と対峙するのである。
足利氏も新田氏も、源義家の四男の義国の系譜をひく、源氏本流の家柄だ。
しかし、鎌倉時代を通じて、御家人の筆頭として北条氏から遇された足利氏に対して、新田氏は他の御家人の中に埋もれてしまっている。そもそも、源頼朝と親戚関係にあった足利義兼以降、足利氏の当主は代々北条氏一族と姻戚関係を結び、その地位と一族の保全を図った。一方新田氏は、そうした姻戚関係戦略が不調で、むしろ足利氏に接近することで、その郎党として一族の保全を図った。
従って、新田氏は足利氏にとっては一郎党に過ぎず、ざっくり言ってしまえば主従関係にあったわけだ。
だが、最近の研究で言われているように、足利氏と新田氏は主従関係にあったのだから、既に六波羅攻めを決意していた尊氏が討幕の命令書を義貞に送り付け、義貞がそれに従ったというのが事実に近いような気がする。新田軍は挙兵後、鎌倉から逃れてきた尊氏の嫡男義詮と合流することで、関東の武家たちを糾合し得る朝廷軍として武蔵に侵攻、半月ほどで鎌倉を攻め落とすことになる。この鎌倉攻略で、義貞は、足利の郎党の中でも無視できぬ特別な存在になりえた、それどころか、北条氏の本拠を落とした自分は後醍醐天皇から見れば尊氏とほぼ同格になったと、都合の良い「勘違い」をしたのかもしれない。
で、鎌倉で戦後処理を行っていた義貞であるが、鎌倉攻めの実質な指揮者であり、武功一番の自分より、どうも武家の連中の気持ちが足利義詮に傾いていることを日に日に感じる事になり、鎌倉の戦後処理・統治の実権も尊氏が送った細川三兄弟の手に次第に移って行くことが明らかになると、不満爆発、遂に京へ上ることに至るのだ。
京に上った義貞は、否応なく新田氏は足利氏の風下に立っていることを目の当たりにする。武者所の長官に任命されるも、それは所詮、尊氏の実質的な武家支配の枠の中という事であって、それ以上のものではないと悟るのである。
そんな、義貞に転機が訪れるのが「尊氏VS後醍醐天皇」という図式の出現だ。
そもそも、朝廷内には、建武新政府に厳然とした影響力を持つ尊氏の存在を疎ましいと思っている公家は数多くいた、というより多数派だったというべきだろう。北条時行討伐の為に鎌倉に入った尊氏が勝手な恩賞授与を始め、後醍醐天皇の怒りを買ってくれたことは、反尊氏派の公家たちにとっては好都合。一気に尊氏排除に動く。その際に、軍事を任せられるのは、尊氏に対抗し、武家の協力を仰ぐだけの源氏の血筋を持つ者は新田義貞しかいなかったということだろう。楠正成では家柄が悪いし、公家の千種忠顕では、武家がついて来るかどうか分からない。
かくして、鎌倉幕府討伐の武功一番の自分は、武家の棟梁たるに相応しいという承認欲求を抱えた義貞は、反尊氏派の公家たちに押し出される格好で、朝廷の尊氏討伐軍の実質的な総大将として尊氏のいる鎌倉を目指すが、結果として尊氏に敗北し、京の防衛線でも敗れ、後醍醐天皇と共に京を捨てて叡山に逃げる事になるのである。
一方の尊氏にとって新田義貞は、鎌倉を落としたことによって武名を挙げ、朝廷からも認められる存在になったが、つまるところ足利氏の郎党の一人に過ぎない。建武新政後の、あたかも新田氏が足利氏と同格であるような義貞の増長振りは、「勘違い」男のそれであり、尊氏にとってはいささか目障りな存在だったと思う。
京進軍1ヶ月前の1335年11月8日、尊氏が後醍醐天皇に送った奏状は、義貞の悪行を書き連ね、義貞討伐の正当性を訴えるものだったが、これは尊氏が義貞をライバル視していたというより、「既に新田義貞が追討軍の総大将になるとの情報を得ていたので、義貞と戦う事は、義貞の悪行を懲らすためで、後醍醐天皇と戦う事を意味するものではない事のアピール。」だったという事ではなかろうか。だから、もし討伐軍の総大将が楠正成なら、義貞の名前が正成に書き換えられただけの話だ。
そう考えてみると、新田義貞は、反尊氏派の公家たちからも、尊氏からも都合よく利用された男という事になり、その振舞わされ感に逆にちょっと物悲しくなったりもする。
だが、義貞の「勘違い」と強い「承認欲求」は、この後、さらに義貞自身を追い込んでいくことになる。
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