兵庫の奇跡 太平記其三二
1336年1月の京での戦いで敗れ、丹波篠村に撤退した足利尊氏は、敗残兵をまとめると三草山を越えて兵庫に落ちる。ここで体制を整え、弟直義に16万騎(太平記によれば)を与えて京奪還を目指すが、2月7日に豊島河原(大阪箕面の辺り)の戦いに敗れ、逆に兵庫で後醍醐天皇方に追い込まれる形となり、尊氏は絶望の淵に立たされることになる。
兵庫の福海寺には、「兵庫に逃げてきた尊氏は、新田義貞の兵に追われ、福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を隠して難を逃れた。」という伝承が残っているが、それほど尊氏は追い込まれていたという事だ。
しかし、ここで不可解にも後醍醐方の攻撃の手が鈍る。
湊川方面から攻め寄せた楠正成は、尊氏と睨み合いの末、一戦交えることなく戦線を離脱する。それに代わるように芦屋方面から北畠顕家が、六甲方面から新田義貞が軍を進め、圧倒的な兵力で足利軍を攻めたてるが、足利尊氏が耐え切れず大内氏・厚東氏が派遣した長門・周防の兵船に乗り海上へと逃れ、足利の兵達も西を目指して落ちていくのを目前にしながら、新田義貞も北畠顕家も、これを追撃して殲滅するという事をせず、兵馬を休めてしまうのだ。2月13日の事である。
まるで、第二次世界大戦時でダンケルクに追い込んだ連合軍を前に、突然進撃を止めてしまったドイツ軍の様だ。いわゆるダンケルクの奇跡だ。結果、連合軍はダンケルクから英国に逃れ、逃れた連合軍は後にノルマンディーに上陸し、逆にドイツ軍をドイツ本国へと追い込んでいくことになる。
兵庫から九州に逃れた尊氏も、後に再びこの地に上陸し、新田義貞、楠正成を打ち破り、再び京へ軍を進めることになる。
圧倒的な勝利が確信されている場合、軍の統率者は、勝利よりむしろ兵の損耗を優先して考えてしまうのだろうか。
ダンケルクの場合は、空軍相ゲーリンクが空爆による連合軍の殲滅を主張し、それを実行しようとしたが、悪天候に阻まれて結果を出せなかったのが理由の一つと言われている。ヒトラーがゲーリンクの主張を受け入れたのは、長期戦に備えて、陸軍の突入による兵の損耗を抑えておきたかった、という事なのかもしれない。
新田義貞・北畠顕家の場合、既に勝利を確信し、尊氏の再起は無理だと判断し、深追いを避けたという事なのだろうか。特に北畠顕家の場合、奥州からの強行軍の上、休むことなく京の奪還戦、そして追撃戦と昼夜を問わぬ戦いぶりで、兵馬は相当疲弊していた筈なので、これ以上の戦いを兵に強いる事は不要との判断が働いたのかもしれない。
更に、ここに来て、新田義貞のカリスマ性の欠如、統率力の弱さが露呈し始めたという事もあるように思う。
新田義貞と楠正成は決して良い関係ではなかったという事は、後の正成の言動を見ても明らかだし、公家出身の北畠顕家にしても、義貞に従うという事に100%の納得感は無かったと思う。それは他の公家の諸将にしても同様だ。後醍醐天皇方の武家にとっても、新田義貞は、足利尊氏と違って源氏の嫡流という訳でもなく、自分たちに恩賞を与える立場にあるわけでも無く、ただ鎌倉の北条攻めで名を成して、偶々後醍醐天皇に気に入られたぽっと出の武将くらいの評価だったのではないだろうか。
そういう事なら、後醍醐天皇方の武将の間に、軍事的に優勢となり余裕が出て来たこの時期に、仮に新田義貞が尊氏の追撃を命じたとしても、その下知に必ずしも従わなくとも良いという風が吹き始めたとしてもおかしくはない。
足利尊氏が海上に逃れたのは、大輪田の泊と呼ばれていた辺りで、古代から良港として栄え、平清盛もここを拠点として宋との貿易で財を成し、この港の北側の福原に遷都までしようとした土地だ。因みに、江戸時代の商人、高田屋嘉兵衛が北前貿易の拠点としたのもここだ。
足利尊氏は偶々ここに落ちのびてくることになり(まさか最初から海に逃れようなどとは思っていなかったと思う)、良港で船を着けやすかったとはいえ、後醍醐天皇方の軍勢に囲まれながら、彼らが何故か兵馬を休めてくれたおかげで、無事海上に逃れ、再起を期することができたという訳で、尊氏にとっては、これはまさに兵庫の奇跡と呼ぶべき事だったのではないかと思う。
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