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宗瑞、東へ

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  伊勢宗瑞は 1497 年に下田近郊にあった関戸氏の深根城を落とし伊豆を支配下におさめました。しかしこのことは、宗瑞が伊豆の永続的な支配を可能にするだけの家臣団を抱え、それに見合う経済的な裏付けを確保しなければならい事を意味しました。   それが故に、支配地から効率よく年貢を徴収するため、郷村ごとに検地を行って年貢高を把握しようとしました。その方法は大雑把に言って、 郷村ごとに田畠の面積(段)を調査し、これに段当たり換算率(例えば田は 500 文、畠は 165 文)を乗じて算出したものから農民の取り分を引いて定納と呼ばれる年貢高を決定するというものでした。つまり、郷村の経済規模を生産力ではなく年貢額によって把握したわけです。勿論、この方式は宗瑞の伊豆支配時に完全に確立していたわけではありませんが、その後の北条氏の基本的な年貢徴収方式になりました。   しかし当時は太陽の活動がシュペーラー極小期( 15 世紀~ 16 世紀半ば)にあたっていて、気候が不順でしばしば土一揆を誘発するような飢饉が日本各地で起こりました。伊豆も例外であるはずもなく、作柄も決して良くなかったと思います。更に、明応 7 年( 1498 年)の静岡南方沖を震源とする M8 クラスの大地震で、津波の被害を被った西伊豆を中心に農業は打撃を受けていました。 一方対外的には兵力の充実が喫緊の課題となっていました。駿河の今川氏との協力関係は続いていて、今川氏の遠江や三河での軍事行動において、 1501 年の三河の松平氏との戦いなど、今川方の武将としての参戦を求められていました。また、関東で山内上杉氏と軍事抗争を繰り広げている扇谷上杉との連携は、山内上杉氏との対抗上、孤立化を避けるためにも無視することができないものでした。   このようなことから、宗瑞としては伊豆からの収入だけでは心もとなく、さらに収入を増やす必要に迫られていたと言えます。となれば、宗瑞が隣接する相模西部に目を向けるのは当然でした。 小田原・国府津は古くから農地の開拓が盛んで、この地方の交易・漁業の中心地でもあったので、ここの領有は宗瑞にとって経済面で極めてメリットの高いものでした。更に小田原の大森藤頼は1496年に自落した際に山内上杉方に寝返っており、 1500 年(諸説あ...

伊勢宗瑞の伊豆領有を可能にしたもの

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  1943 年の足利茶々丸の韮山御所討ち入りでは茶々丸を討ち取ることはできなかったのですが、宗瑞はすぐさま茶々丸追討を行ってはいません。韮山御所討ち入りはある意味奇襲だったので、今川氏親からも借りていた兵も含めてある程度の兵がそろっていれば可能だったでしょうが、茶々丸が頼っていく伊豆の国衆を一つ一つ潰していくには、とても十分な兵力を有していたとは思えません。おそらく宗瑞自身の家臣団は従者まで含めても数住人程度だったと思われますし、ましてや、今川からの兵をそういつまでも借り続ける訳にもいかなかったでしょう。 さらには前回書きました通り、宗瑞は今川氏親の後見役を始めとして、この地の様々なしがらみに取り込まれていたわけですから、茶々丸追討だけに全勢力を使う訳にも行かなかったのです。 事実、 1944 年 8 月には今川軍の総大将として遠江へ遠征していますし、 9 月には扇谷上杉定正の要請を受けて相模・武蔵へ進軍しています。 特に扇谷上杉定正に従った戦いでは、上杉定正が戦場であった武蔵国高見原で荒川渡河中に急死し、宗瑞自身も山内上杉顕定、古河公方足利政氏に攻められ、やっとのことで伊豆迄逃げ帰ったという事もあって、とても伊豆平定まで手が回らなかったのです。 1945 年になってようやく宗瑞は茶々丸追討・伊豆平定の兵をおこし、茶々丸が頼っていた伊豆中部の狩野氏を攻め、茶々丸を伊豆大島に没落させます。                                  韮山城址 この年、宗瑞は韮山城を拠点とすることにし、駿河の拠点だった焼津の石脇城と領地を今川に返却しています。今川氏親の後見役は続けましたが、伊豆北部の領主として今川氏の傘下から自立したわけです。(伊豆中部では狩野氏が引き続き勢力を保っていました。)   さて、ここで宗瑞が領主として自立できたのは何故だったかという事です。 1 まず、兵力の充実です。足利茶々丸の韮山御所からの逃亡によって、反茶々丸派の堀越公方足利氏の家臣たちが宗瑞の傘下に入っていったという事が考えられます。 2 さらに、宗瑞は伊豆北部の国衆や土豪を積極的に傘下に取り込んだという事もあります。この時期、宗瑞は傘下に入った国衆に新たに領地を与えたり、土豪にそれまで課されていた夫役を免除するような優遇...

絡めとられる伊勢宗瑞

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  1493 年に伊勢盛時は駿河に下向しますが、この頃盛時は出家して宗瑞と名乗るようになりますので、これからは伊勢宗瑞と表記します。そして、これ以降宗瑞は京に戻ることなく、駿河・伊豆・関東を転戦しながら生涯を終えることになります。   これには主に二つの理由があると思います。   一つ目は、この時代の流れとして、領主が滞在していない領地は次第に在地領主によって浸食・奪取されるようになりました。京や駿河を中心に活動していた宗瑞が所有していた備中荏原も、在地勢力も伸長によって経営が実質的に奪われてしまっていたと見られます。となれば、後見を務めている今川氏親や奉公衆として仕えていた足利政知から得た領地を在地領主として維持することが生活の基盤を築くうえで必須で、宗瑞はこの地の領主として生きていく覚悟を持たざるを得なかったのだと思います。この時期、京から妻子である小笠原政清娘(南陽院)と伊豆千代丸(後の氏綱)を呼び寄せるとともに、大道寺、山中、荒木といった家臣たちも呼び寄せているのも、その覚悟の表れかと思います。   二つ目は、京・駿河・関東・信州にまたがる複雑な抗争関係の蜘蛛の意図にからめとられてしまったという事ではないでしょうか。下の図は、この時代の宗瑞を取り巻く連携・抗争関係をまとめたものですが、この図で見る限り、宗瑞は駿河及び伊豆から離れたくとも離れようがなかったといえます。 まずは、京の細川政元らの後ろ盾を得て足利茶々丸討伐のために伊豆に侵攻しましたが、茶々丸を取り逃がしたために伊豆での茶々丸討伐戦は続いていましたし、茶々丸支援勢力であった山内上杉氏と対抗するため、扇谷上杉氏との連携も必要でした。加えて占拠した伊豆韮山の領地経営にも時間を割かなければなりませんでした。 また、今川氏親の後見、といっても家臣なわけですから、として今川氏の遠江における対斯波氏戦に参戦しなければなりませんでした。 更に、近隣甲斐武田氏の家督争いにも今川氏親が関与していましたので、このための働きも求められていたのです。   こうして、京・駿河・関東・信州にまたがる複雑な抗争関係の蜘蛛の糸に絡めとられてしまった伊勢宗瑞は、備中での生活基盤をほぼ失ってしまったこともあり、否応なくこの地に留まらざるを得なくなっ...

京の政局が戦国大名伊勢宗瑞を生む

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  伊勢盛時は1487年11月に小鹿範満を滅ぼすと、これ以降は龍王丸の後見役となり駿河の政情安定に努めたと思われます。 また、この時期に伊豆堀越の足利政知の奉公衆にもなっています。この頃、京で大きな政治力を持っていたのは管領細川政元ですが、足利義政の兄であり堀越公方である足利政知と関係を深めることは細川政元にとって政略的に利があり、偶々駿河にいる将軍足利義尚の申次衆であった伊勢盛時を足利政知のもとに送り込むことはその面で得策だったのだと思われます。それはまた同時に伊勢盛時と細川政元にある程度の連携関係にあったという事でもあります。   1489年3月、将軍足利義尚は六角氏討伐のため遠征していた近江で病のため25歳の若さで死去します。この時、後継者候補は二人いました。一人は義尚とともに足利義政の後継を争った足利義視の息子の義稙(この頃は義材と名乗る)、もう一人は足利政知の息子の義澄(この頃は出家していて清晃と名乗る)です。細川政元は義澄を擁立しようとしていましたが、足利義政の正室日野富子が支援した義稙が後継となりました。 伊勢盛時はこの年駿河を離れて京に戻っています。それが義尚死去の前だったのか後だったのか、義尚の後継問題に関係していたのか、していなかったのかは分かりません。しかし、盛時が足利政知の申次衆だったことを考えると、義尚の後継問題、そこから派生する政局と全く無関係だったとは思えません。  修善寺温泉独鈷の湯 京に戻った伊勢盛時は1491年5月、足利義稙の申次衆となりますが、それと前後して伊豆に異変が起こります。この年4月、足利政知が亡くなり、7月、義澄とは異腹兄弟の足利茶々丸が政知の後継者と目されていた潤童子とその母親の円満院を殺害し、堀越公方の家督を継いでしまうのです。そして、おそらくという域を出ませんが、これを受けて8月に盛時は再び駿河に下ります。背後には、足利政知と関係を深め、政知の息子の義澄を将軍に擁立したいと思っていた細川政元の、伊豆の政情を自分に有利な方向に導きたいという意図が透けて見えるような気がしますし、もしかすると、伊豆の政情不安が駿河に波及することを恐れた今川氏親と北川殿の要請があったのかもしれません。 いずれにせよ、駿河に下った盛時は駿河で足利茶々丸対応の準備を着々と進める事になります...

姉妹北川殿の結婚が伊勢盛時と駿河を結びつける

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  歴史上この結婚が無かったら歴史は変わっていたかもしれない、と思わせる結婚がいくつかあります。真っ先に思い浮かべるのは源頼朝と北条政子の結婚で、これがなければ、頼朝の幕府成立はもっと遅れていたかもしれないし、ことによったら無かったかもしれない。少なくとも北条氏の執権政治は実現しなかった可能性が高いと思います。   伊勢盛時にとっても、姉妹である北川殿と駿河の守護今川義忠の結婚は大きく彼の人生を左右しました。もしこれがなければ関東の覇者北条氏という歴史は無かったかもしれません。   当時、盛時の父盛定は時の政所執事伊勢貞親と側近として主に外交面を担っていたので、その関係で駿河の今川義忠との交流がありました。今川義忠としては幕府とのパイプとしての盛定の存在は大きかったので、その娘の北川殿と婚姻関係を結ぶことは極めて効果的であり必然的な事でありました。 今川義忠と北川殿の結婚は 1467 年頃と考えられています。 1473 年には二人の間に龍王丸、後の今川氏親が生まれますが、ほどなく不幸が訪れます。 1476 年、今川直義が遠江遠征中に戦死してしまうのです。この時、龍王丸はまだ 4 歳でした。今川家では家督を巡って龍王丸派と義忠の従弟である小鹿範満派の間で争いが起こりますが、この時は範満が堀越公方の足利政知と扇谷上杉定正の後ろ盾を得て、龍王丸が成人するまでは家督を暫定的に次ぐという調停が成立します。 太田道灌が扇谷上杉定正の命を受けて、小鹿範満支援の為に駿河に進駐したのはこの時の事です。伊勢盛時も京から駿河に下り、龍王丸派を支援すべく小鹿派との調停に奔走したという説もありますが、これは現在では伝承の域を出ないと言われています。   伊勢盛時が駿河に下るのは 1487 年のことです。龍王丸は既に元服できる年齢に達していましたが、範満が家督を譲ろうとしないので、北川殿と龍王丸は京の伊勢盛時に助けを求めたのです。この時、盛時は将軍足利義尚の奉公衆となっており、 1479 年に既に足利義政から龍王丸本領安堵の御教行を得ていたことから、おそらくは将軍義尚及び側近細川政元の許しも得た上で駿河に下ったものと思われます。つまり、盛時は北川殿と龍王丸から頼みとされる地位と環境にいたわけです。そして、 11 月に駿府の小...

北条早雲(伊勢宗瑞)の青春時代は応仁の乱の真っただ中

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伊勢宗瑞の生まれについては備中荏原説と京都説があるようですが、どちらにしても多感な 10 代は京都にいたようです。この頃は伊勢新九郎盛時と名乗っていたようなので、暫くは盛時と呼ぶことにします。 盛時の生年につぃては 1438 年説と 1456 年説があるようですが、最近では 1456 年説が有力らしいので、ここでは 1456 年説を採用します。 宗瑞誕生から 1460 年代にかけては、伊勢氏で言えば、 1460 年に時の将軍義政から政所執事に任命された伊勢貞親の全盛期だったのです。伊勢貞親は宗瑞の父盛定の正室、つまり宗瑞の母親の兄弟です。また父盛定も貞親の外交交渉面での補佐をしていたので、宗瑞はかなりの至近距離で政治の中枢をうかがい知ることができたのではと思います。 また 1460 年には長禄寛正の飢饉が起こりました。京だけで 8 万人ほどが餓死したと言われるほど凄まじいもので、地方からも戦禍と旱魃で流民化した民衆が京に流れ込んできました。流民が京に流れ込んでくるのは、当時、京の寺社や商人が飢えた民衆に施しを与えたからと思われます。                     応仁の乱の激戦地 百々橋跡 そして 1467 年に応仁の乱が勃発します。この時、盛時は数え 12 歳です。前年の 1466 年に細川勝元と対立した伊勢貞親が近江に逃亡する文正の政変が起こり、父盛定も貞親について近江に逃亡したので守時も同様に京を離れたのでしょうが、翌年、貞親は応仁の乱勃発と同時に義政から京に呼び戻されているので、盛時も同様京に戻ったと思います。 つまり、盛時の多感な 10 代は、その時期日本を襲った旱魃、長雨、寒冷気候による飢えた流民たちが京という町にひしめき、その中で果てるともない戦いを繰り返した応仁の乱という戦乱の中で過ごしたと言えるのかもしれません。 この時点で盛時が室町幕府という傘の下から飛び出して自らの力で領国を支配する大名として名を馳せようなどと思ったりはしていないと思いますが、これから自分がどう生きていくにしても、幕府という既存の権力では制御しきれないこの社会の状況は所与のものとして考えなくてはならない、くらいは思ったかもしれません。惣村を基盤として武士の力だけではその要求を抑えきれない農民たち、世の乱れに呼応して略奪を繰り返す流民たち、その流...

北条早雲あるいは伊勢宗瑞を調べていく楽しみ

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  かつては北条早雲は浪人の身から下剋上を繰り返し大名まで上り詰めた戦国大名と学校で教わったものだが、現在ではそういうことを言う人はいない。北条早雲という名も伊勢新九郎または伊勢盛時もしくは出家してからの伊勢宗瑞という名に置き換わってきている。何故なら、北条早雲は存命中に北条早雲と名乗ったことは一度もないからです。 伊勢宗瑞の備中伊勢氏は桓武平氏維衡流(伊勢平氏)の中では庶流と考えられているが、父親の盛定は足利義政の下で政所執事となった伊勢貞親とは義理の兄弟関係にあたるので、伊勢宗瑞は浪人どころか政権の中枢を担う華麗なる一族の末端に連なっていたわけで、宗瑞が戦国大名として伊豆や相模を支配する以前に足利義尚や足利義材に仕えていたのは、こうしたバックグラウンドがあったからです。   戦国大名伊勢宗瑞を考えるうえで、この華麗なる一族の末端という立ち位置をどうとらえるかによって見方はかなり変わってくると思われます。 要は、 1. 伊勢宗瑞は有力政治家一族の末端にいることで、当時の社会情勢や京の政治環境に振り回されつつ、エリート官僚的感覚で問題を処理していたら、気が付いてみたら結果的に戦国大名への階段を上っていた。 2.伊勢宗瑞は有力政治家一族の末端にいることで、当時の社会情勢や京の政治環境を積極的に利用して自らの野望としての戦国大名への階段を上った。 かのどちらかです。 結果論で見れば、そんな事はどちらでも良いのですが、過程を見るという事では、伊勢宗瑞の立ち位置によってその時代の経済・流通・権力・権威の有効性等の社会環境とかかわり方が変わってくるように思えますし、そのかかわり方がその時代の社会の要請に密接に関係している以上、それは取りも直さずその時代の社会の実像を浮き彫りにすることになりはしまいかと思ったりするのです。   室町後期という時代は、幕府が統治者としての力のかなりの部分を失いつつも、ある程度の社会のタガとなっていた時期。しかし、経済・流通・領主支配等の自由度が飛躍的に伸びた時代でもあって、その社会の波動が結果として幕府というタガを破っていく時代ともいえるので、その意味で、応仁の乱以降戦国大名の成立までの時代に生きた伊勢宗瑞の生涯は当時の社会の鏡となっているのかもしれず、そこに伊勢宗瑞を調べていく楽し...