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足利尊氏の疎外

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  延文 3 年( 1358 年) 4 月 30 日、足利尊氏は京で死ぬ。死因は背中の腫れ物と言われる。   足利尊氏の人生は、足利家の当主として家を守ることに専心しつつも、そのことに常に何となく退屈しているということの繰り返しの様に見える。そうだとしたら、尊氏は常に疎外感を感じていたと言わざるを得ない。   1333年、尊氏は鎌倉幕府に反旗を翻す。これは、北条家と密接な関係を気付いている足利家はうかうかしていると北条氏もろとも滅ぼされてしまうかもしれないという危機感の故であり、自ら新政権の首領になろうとは思っていなかったと思う。事実、新政権の首領は後醍醐天皇であり、その後醍醐天皇から政権を奪取しようなどとは当初は思ってもみなかった。 倒幕直後、武家の頭領としてちやほやされ、プライベートでは和歌を詠み田楽を観ながら楽しく生活を送れていると思っていたら、中先代の乱( 1335 年)の事後処理で図らずも後醍醐天皇の反感を買う。そこで鎌倉浄光明寺で反省の引き籠りをしたのは、これで後醍醐天皇から許してもらえるという甘い見通しと、上手くいけば政治から一歩退いた自由を手に入れられるかもしれないという淡い期待もあったのかもしれない。しかし現実には最愛の弟直義救援のため後醍醐天皇と武力抗争に入らざるを得なくなる。 一時は九州まで逃走するという苦労を経て京を占拠。ようやく幕府を開いたので、恩賞沙汰を除く政務の大半を直義に任せ、自らは半ば隠居して楽しく暮らそうと、直義にすべてを委譲して遁世する旨の願文を清水寺におさめるも、結局望み通りにはならない。そうこうしているうちに直義と高師直の権力抗争に巻き込まれ、再び戦乱に渦中に身を投じることになり、高師直と直義の死という悲劇に見舞われながらも嫡男義詮を後継の将軍に据え、ここで引き続き反旗を翻している何故か愛情がもてない庶子直冬を討伐すれば落ち着けると思った時には既に死期が迫っていたのである。   面倒で制御不能な世事から身を引くことを望みながら、終始その世事に翻弄され続けたというのが尊氏の人生だった。 武家の中での地位は尊氏に確かに満足を与えたが、しかしそれは同時に自己を疎外するものでもあった。尊氏は常に暇を欲し束縛から自由であろうとしたと同時に、束縛から逃れるだけの意志の強さも持ち合わせていない。世事の束縛の

観応の擾乱の副産物 関東の騒乱

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  開闢当初の室町幕府は、尊氏の領地の分配・所領安堵に基づく御恩と奉仕の関係による支配と並行して直義の制度・組織による統治により武士を束ねていたので、この時代は尊氏・直義の二頭政治の時代と言われている。朝廷・寺社もこの流れの中で武家社会との関係を持つことになる。 それが観応擾乱で直義死ぬと必然的に全ての支配統治権力が尊氏の許に集まる。実際には観応の擾乱三段階 1.直義による高師直の官職追放、その後の高師直の御所巻きと直義の逼塞(1349年6月~) 2.直義の巻き返しと高一族の滅亡(1351年1月~) 3.尊氏、義詮の直義追討と直義の死、それ以降の関東での戦い(1351年10月~) の1.で直義が逼塞すると尊氏は鎌倉から嫡子義詮を京に呼び戻し、3.で直義を追討した尊氏が関東にいる直義派残党・南朝派勢力の討伐のために鎌倉に残ると、暫くは一元化された支配統治権を持つ尊氏と義詮が鎌倉と京に併存するのだが、尊氏が京に戻るに及んで義詮に集中することになる。この支配統治権の将軍への一元化が観応の擾乱の産物と言える。   ところが、観応の擾乱はもう一つ副産物を生んだ。 直義逼塞時に尊氏は鎌倉の義詮を京に呼び戻し、代わりに次男の基氏を鎌倉に送った。その後、直義を追討した尊氏が鎌倉で京の義詮に諮ることなく独自に関東の武士たちに恩賞を与え始めるのだが、それを基氏は近くから見ていたわけで、その過程で鎌倉の京に対する独立性というものを意識していったのではないかと思う。 そもそも、建武新政の当初、関東の武士たちを統治するために後醍醐天皇の皇子成良親王を鎌倉将軍として送り直義が執権を務めたのだが、鎌倉将軍府はあくまで京の政権の下部組織であった。尊氏も京と鎌倉の関係は十分承知はしていた筈だが、そこは親子の関係、承知の上で鎌倉独自の支配統治を行っていたようだ。 基氏はその後も鎌倉公方として鎌倉で関東の支配を行ってゆき、その子孫が代々鎌倉公方を引き継ぐのだが、足利義満以降の室町幕府の不安定性のなかで鎌倉の独自性、京との対等性という意識が徐々に確固としたものになっていったと考えられる。 この事が、その後の関東における騒乱、1416年上杉禅秀の乱、1438年永享の乱、1454享徳の乱の下地になって行くこと思えば、観応の擾乱は足利兄弟の壮大な兄弟喧嘩とか足利氏の内訌と

観応の擾乱 漂流する願望と現実

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  観応の擾乱という壮大な兄弟喧嘩とは 何だったのだろうか。 そもそも、兄弟で争う意思があったのだろうか。足利尊氏、足利直兄弟義双方にその強固な意思は見えない。 観応の擾乱を 1.直義による高師直の官職追放、その後の高師直の御所巻きと直義の逼塞(1349年6月~) 2.直義の巻き返しと高一族の滅亡(1351年1月~) 3.尊氏、義詮の直義追討と直義の死、それ以降の関東での戦い(1351年10月~) の三段階に分けるとして、 高一族が滅ぼされた時期以降に、感情的に兄弟互いに感情的に憎むことはあったかもしれないが、それでもそれは兄弟喧嘩の域を出ず、幕府の在り方をめぐるイデオロギー闘争でも、権力闘争でもなかった。 兄弟の感情的な対立としては、尊氏の庶子直冬の処遇を巡る対立が考えら、これに関連した尊氏の嫡子義詮の尊氏後継に関する其々の思惑でのすれ違いも考えられるが、それが原因で兄弟殺し合いに発展するとは、そもそも仲の良い足利兄弟の場合、考えにくい。   基本的に幕府運営上の思想の対立は高師直と足利直義の間にあり、尊氏積極的にこれに関わらず執事である高師直の上に乗っかっていたに過ぎない。問題は、この高師直・足利直義の幕府運営方針の対立に乗じて、己が勢力の伸長を図ろうとした武家達だ。   直義の政治思想は、鎌倉幕府的秩序を尊重し維持することであるので、寺社・公家の大半はこの直義の思想を支持していたと思われる。それに対して高師直の思想は朝廷や寺社といった伝統的権威を軽視し、武家の権益を拡大することを目指すことにあった。そうであれば、武士たちにとっては高の思想こそ己が勢力を伸長させるのに好都合なのであるから、こぞって高の側に付くと思いきや、実際はそうはならない。例えば有力御家人の様に鎌倉幕府体制を維持した方が好都合というケースもあり、武士たちにとっても、全て力で片を付けようかと言わんばかりの高の思想では対応しきれないという現実もあり、逆に現状の領地の保全という意味では直義の思想にも一定の理はあったのである。 武士たちはその時その時の己が置かれた状況に応じて直義と高の思想を天秤にかけたろうし、またどちらの勢力が優勢かに応じて立ち位置を変えただろうし、自分の敵対勢力が尊氏・高か直義かどちらについているかによりつく側を変えただろうし、という

与野党対決から与党派閥抗争へ 観応の擾乱前夜

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  1336年に建武式目が制定され、1338年に足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられると、足利幕府は政権与党としての形が出来上がった。 一方、足利方から見れば野党である後醍醐方は1338年までに楠正成、名和長年、千草忠顕、北畠顕家、新田義貞といった戦闘部門の幹部を失い、1339年には後醍醐が崩御する。この後しばらくは北朝方と南朝方の小競り合いが続くが1347年に楠正行の蜂起後の高師直・師泰の南朝吉野攻略により南朝は北朝の脅威となるような軍事的な勢いを一時的に失う。 この間、足利幕府内では派閥抗争が次第に顕在化してくる。つまり、北朝方から見れば、与野党対立から与党内派閥抗争に移行するわけだが、野党である南朝も依然として無視できない勢力を維持していた。 与党内派閥抗争は基本的に高師直派と足利直義派の間で争われ、尊氏は何となく高派に担がれている感じになるが、直義派と対立関係にあるわけではない。この中途半端な状況は尊氏が派閥間の調整を行っていないという事の表れであって、言ってみれば調整能力を発揮しようとしない総裁の下で、勢力が拮抗する2派閥がいがみ合っているという構図だ。 この状況で何か起きない方が不思議だ。 尊氏を担ぐ高派は御恩と奉公をベースとする武士たちとの関係性の上に立ち、直義派は制度・組織により武士たちを統括していこうという立場だが、対立の根底はここにあるのではなく、むしろ鎌倉以来の利権を維持強化したい旧御家人である主に関東の武士勢力と、関西の悪党を含む新興武士勢力の対立という具合に考えた方が良いかもしれない。足利尊氏を首班とする鎌倉幕府の再興を目指す直義方に有力関東武士が多く集まっているのは、関東の武士勢力が尊氏と高師直・師泰が鎌倉幕府倒幕時に重用していた新興西国武士の台頭を危ぶみ、鎌倉幕府以来の既得権益を侵される可能性に対する危機感を抱いていたという事に他ならない。 この時代、既に伝統的権威というものが形骸化しているのは、例えば尊氏や後醍醐によって、都度の状況に合わせて即位と退位を繰り返した光厳天皇(上皇)の状況を観れば明らかである。 こういう状況の中で衝突が起これば、武士たちは理念や理想に関わりなくがむしゃらに自らの権益を守ろうとするのであるから、その権益維持拡大本能によって行動は規定される。派閥のトップである高、直義において

足利尊氏の現実逃避

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  源頼朝が平家討伐に向けて挙兵した当時、それに従った武士たちの心にあったのは、 「世の権力を都の貴族たちが一手に握り、その中でも平家の専横が極まるこの世の中、己の所領を安堵するという意味でも頼朝に付いて行ったら、何かより良い未来があるのではないか。」 という希望だった。 それが足利尊氏の時代となると、鎌倉期を通じてその地位と所領に一定の確信がもたらされた武士たちの心の内は 「己にとって、より良い未来をもたらしてくれるのは誰に付くべきか。」 という期待に変化した。希望から期待への変化。 もし、鎌倉幕府倒幕時に武士の心の内にあったものが希望という漠としたものであったら、源氏本流であったとしても尊氏は北条氏討伐に乗らなかったかもしれない。しかし、武士の心の内にあったものが具体的な成果を求める源氏本流への期待というものであれば、話として極めて切実なものになる。期待通りにいけば良し、期待を裏切った場合、悪くすれば自らの滅亡に繋がるとすれば事は穏やかではないどころか、それに恐怖すら感じるはずだ。以前にも、尊氏の倒幕モチベーションの一つは、この恐怖感だったと書いた。   1336 年5月に湊川で新田・連合軍を破った足利軍は、その勢いのまま京を占拠。後醍醐天皇の朝廷は未だ比叡に籠ってはいるものの、 8 月に持明院統の光明天皇を擁立し、足利尊氏を首班とする武士政権を打ち立て、建武式目の制定作業も始まったこの時期、尊氏としては、これである程度武士たちの期待に応えられたという気分になったのではないかと思う。というか、既に鎌倉幕府滅亡後の騒乱に倦んできた尊氏の現実逃避願望がここに来て噴出したのではないか。 光明天皇擁立と時をほぼ同じくして尊氏が清水寺に収めた願文は、この時の尊氏の現実逃避願望を正直に物語っているのだと思う。 「この世は夢のごとくである。願わくは尊氏に道心を与えてもらって、早く遁世したい。現世の果報に代えて後生を助けてもらいたい。今生の果報はすべて弟・直義に賜って、直義を安穏に護っていただきたい。」(清水寺願文)   尊氏の真情は、全ての権限を弟直義に移譲して完全引退という事だったろう。少なくともこの時期はそう思っていた筈だ。しかし、世の中そうは思い通りにならない。敵対勢力が厳然と目と鼻の先の比叡に存在するこの時期の幕府には、何よ

孤立する後醍醐天皇は足利尊氏の懐に飛び込む

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  後醍醐天皇の政治は、 1321 年のその即位の時から多くの朝廷の貴族たちにとって決して歓迎できるものでは無かった。というのも、後醍醐天皇の政治は、旧来から貴族の職の体系を否定し、同時に公卿の合議体を解体することで、政治の執行機関を天皇が直接掌握しようとするものであったからだ。その結果、日野俊基のように身分は低くとも実力によって取り立てられる者もいたが、逆に代々受け継がれた既得権益を失う者も多く出てくる。 従って、 1333 年に鎌倉幕府滅亡に伴い建武新政権が樹立した時には、既に貴族たち中に後醍醐天皇に反感を持つものが多く存在したし、鎌倉幕府討伐戦後の領地政策の失敗による武士からの反発もあり、建武新政権は樹立直後からその基盤は揺らいでいたと思う。 133 6年7月、湊川で新田・楠連合軍を破った足利尊氏が京に迫ると、後醍醐天皇とその取り巻きは京を捨てて比叡に逃げるのだが、この段階で多くの貴族から後醍醐天皇個人に対する支持は失われていて、天皇がだれであろうと足利尊氏の政権下で失った既得権益を取り戻そうと考える貴族たちの多くは京に残ったと考えられる。 建武新政時の領地分配政策に不満を持ち鎌倉幕府討伐戦で得た領地の安堵を望む武士たちと、既得権益と家の存続を願う貴族たちの期待を一身に受けた足利尊氏の決定的優位はここで顕著になったのであり、一方の後醍醐天皇は孤立感を深めることになる。 しかし、後醍醐天皇にとってはどんな形であろうと天皇であり続けることが第一義であり、天皇でなくなれば、その理想とする政治を復活させることもできない。その為には、武力での形成挽回が困難になった状況下では足利尊氏との妥協などは大した問題ではない、というのが後醍醐天皇の発想であっただろうから、足利尊氏と和議を結び京に戻ったのは、後醍醐にとって至極当然の行動だったと言える。そして、足利尊氏の最大の武力対抗勢力であった新田義貞を簡単に切り捨ててしまったのも当然の帰結だった。後醍醐天皇が注意深い人間の観察者であったなら、現実受容型の足利尊氏の懐に飛び込んでしまえば、時間をかけて足利尊氏との力関係を逆転させていくことは十分可能だと考えた筈だ。 133 6年10月の後醍醐天皇の京への還行はこうして為されたのである。 だが、その後3カ月を経ずして、後醍醐天皇は吉野に逃れる。これは京に戻ると同時に

会下山 湊川戦場一望の地は、楠正成滅亡覚悟の地

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  1336 年 3 月、九州に上陸した足利尊氏は、博多近郊の多々良浜にて、 2 千の軍勢で菊池氏を中心とする 2 万の九州武家連合を奇跡的に破った。と言っても、九州武家連合で明確に後醍醐朝廷側として戦ったのは菊池知武敏と阿蘇惟直の 2 千数百の軍勢のみで、あとは武家政権の親派で戦況次第で加勢する側を決める日和見勢力だったので、尊氏の勝利は約束されていたものでは無いにしろ、奇跡的とまではいかないものだったと思う。おそらく、戦いを前にして、尊氏は九州の武家の動性を注意深く探っていただろうし、事実、戦いが始まり、足利勢の積極的な戦いぶりを目の当たりにした九州勢の中には松浦氏など早々と足利方に寝返る者が続出した。 この戦いの後、大宰府で陣容を整えた尊氏は、 4 月、いよいよ九州を発ち京に向かって進軍を開始する。途中の鞆(広島県鞆の浦)で軍勢を二手に分けた足利軍は、陸路山陽道を弟直義が、海路を尊氏が東に向かう。一方、これを迎え撃つべく京から西進する新田義貞軍は赤松円心が立て籠もる播磨白旗城の攻略に手間取り、足利軍東上を知るや兵庫まで退き、ここで足利軍を迎え撃とうとする。 ここまでが、湊川の戦までの経緯だ。 1336 年 5 月の湊川の戦いは、その戦局の経緯を簡単に言ってしまえば、湊川西方の会下山に陣を張る楠正成と兵庫和田岬に陣を張る新田義貞が、足利尊氏船団の陽動作戦により東西に分断され、ここに分け入った尊氏軍と山陽道から攻め上る直義軍に挟み込まれる形で楠軍が壊滅し、新田軍も足利軍に押されるがまま京に向かって撤退するという事になる。   楠正成が布陣した会下山は、神戸電鉄有馬線湊川駅から歩いて 20 分くらいのところにあり、現在は公園になっていて、山というより小高い丘という風情だが、頂上への坂は結構厳しい。 山頂に立ってみると、和田岬から生田にかけて、兵庫の街並みが一望できる。ここからなら、和田岬沖に展開する足利尊氏の船団や、それが東に向かって陽動し新田軍を混乱させる様や、和田岬に自軍と新田軍を割って入るように上陸してくる足利軍をまさにパノラマ・ビューのように克明に望むことができる。という事は、取りも直さず、楠正成にとっては自らの滅亡の運命も明確に見て取れ、その運命を覚悟したという事でもあったろう。 この勝利の見込みがほぼあり得ない絶体絶命の期に及