伊勢宗瑞の伊豆領有を可能にしたもの

 1943年の足利茶々丸の韮山御所討ち入りでは茶々丸を討ち取ることはできなかったのですが、宗瑞はすぐさま茶々丸追討を行ってはいません。韮山御所討ち入りはある意味奇襲だったので、今川氏親からも借りていた兵も含めてある程度の兵がそろっていれば可能だったでしょうが、茶々丸が頼っていく伊豆の国衆を一つ一つ潰していくには、とても十分な兵力を有していたとは思えません。おそらく宗瑞自身の家臣団は従者まで含めても数住人程度だったと思われますし、ましてや、今川からの兵をそういつまでも借り続ける訳にもいかなかったでしょう。

さらには前回書きました通り、宗瑞は今川氏親の後見役を始めとして、この地の様々なしがらみに取り込まれていたわけですから、茶々丸追討だけに全勢力を使う訳にも行かなかったのです。

事実、19448月には今川軍の総大将として遠江へ遠征していますし、9月には扇谷上杉定正の要請を受けて相模・武蔵へ進軍しています。

特に扇谷上杉定正に従った戦いでは、上杉定正が戦場であった武蔵国高見原で荒川渡河中に急死し、宗瑞自身も山内上杉顕定、古河公方足利政氏に攻められ、やっとのことで伊豆迄逃げ帰ったという事もあって、とても伊豆平定まで手が回らなかったのです。

1945年になってようやく宗瑞は茶々丸追討・伊豆平定の兵をおこし、茶々丸が頼っていた伊豆中部の狩野氏を攻め、茶々丸を伊豆大島に没落させます。

                                 韮山城址

この年、宗瑞は韮山城を拠点とすることにし、駿河の拠点だった焼津の石脇城と領地を今川に返却しています。今川氏親の後見役は続けましたが、伊豆北部の領主として今川氏の傘下から自立したわけです。(伊豆中部では狩野氏が引き続き勢力を保っていました。)

 

さて、ここで宗瑞が領主として自立できたのは何故だったかという事です。

1 まず、兵力の充実です。足利茶々丸の韮山御所からの逃亡によって、反茶々丸派の堀越公方足利氏の家臣たちが宗瑞の傘下に入っていったという事が考えられます。

2 さらに、宗瑞は伊豆北部の国衆や土豪を積極的に傘下に取り込んだという事もあります。この時期、宗瑞は傘下に入った国衆に新たに領地を与えたり、土豪にそれまで課されていた夫役を免除するような優遇策を用いて勢力の拡大に努めています。

3 また、これは想像ですが、周辺から流れ込んでくる氓民を兵力(足軽)として使っていったのかもしれません。この時期、太陽活動が低下したシュペーラー極小期にあたっていて、地球全体が寒冷化したために農作物が不作となることが多く、飢饉も頻発していたのです。代表的なものは1460年頃に発生した長禄・寛正の飢饉で、京だけでも数万人が死んだと言われています。これは京周辺のデータですが、土一揆の発生は1480年代、1490年代にピークを迎えています。勿論、土一揆の発生は気候だけが原因ではありませんし、土一揆と氓民の数が比例するという事も確実に証明されるわけではないのですが、氓民が多く発生する社会状況であったことは宗瑞が領有しようとしていた伊豆、関東でも変わりなかったと思います。因みに、この氓民を足軽として取り込んで京で一大軍事勢力にのし上がったのが骨皮道賢です。自前の兵力に不安のあった宗瑞が、氓民を兵として積極的に取り込んでいったという事は十分考えられることではないかと思います。

4 次は公権力からの承認です。この時期、幕府で権力を握っていたのは宗瑞との関係が良かった細川政元なので、伊豆北部の領有は幕府から承認されていたと考えられます。

 

宗瑞が完全に伊豆を掌握するまでにはあと数年の月日を要しますが、これには伊豆支配に必要な兵力を充実させることと、農作物の不作などを起因とする領民からの突き上げに対応することに費やした時間が含まれているのだと言えると思います。

 

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