京の政局が戦国大名伊勢宗瑞を生む
伊勢盛時は1487年11月に小鹿範満を滅ぼすと、これ以降は龍王丸の後見役となり駿河の政情安定に努めたと思われます。
また、この時期に伊豆堀越の足利政知の奉公衆にもなっています。この頃、京で大きな政治力を持っていたのは管領細川政元ですが、足利義政の兄であり堀越公方である足利政知と関係を深めることは細川政元にとって政略的に利があり、偶々駿河にいる将軍足利義尚の申次衆であった伊勢盛時を足利政知のもとに送り込むことはその面で得策だったのだと思われます。それはまた同時に伊勢盛時と細川政元にある程度の連携関係にあったという事でもあります。
1489年3月、将軍足利義尚は六角氏討伐のため遠征していた近江で病のため25歳の若さで死去します。この時、後継者候補は二人いました。一人は義尚とともに足利義政の後継を争った足利義視の息子の義稙(この頃は義材と名乗る)、もう一人は足利政知の息子の義澄(この頃は出家していて清晃と名乗る)です。細川政元は義澄を擁立しようとしていましたが、足利義政の正室日野富子が支援した義稙が後継となりました。
伊勢盛時はこの年駿河を離れて京に戻っています。それが義尚死去の前だったのか後だったのか、義尚の後継問題に関係していたのか、していなかったのかは分かりません。しかし、盛時が足利政知の申次衆だったことを考えると、義尚の後継問題、そこから派生する政局と全く無関係だったとは思えません。
京に戻った伊勢盛時は1491年5月、足利義稙の申次衆となりますが、それと前後して伊豆に異変が起こります。この年4月、足利政知が亡くなり、7月、義澄とは異腹兄弟の足利茶々丸が政知の後継者と目されていた潤童子とその母親の円満院を殺害し、堀越公方の家督を継いでしまうのです。そして、おそらくという域を出ませんが、これを受けて8月に盛時は再び駿河に下ります。背後には、足利政知と関係を深め、政知の息子の義澄を将軍に擁立したいと思っていた細川政元の、伊豆の政情を自分に有利な方向に導きたいという意図が透けて見えるような気がしますし、もしかすると、伊豆の政情不安が駿河に波及することを恐れた今川氏親と北川殿の要請があったのかもしれません。
いずれにせよ、駿河に下った盛時は駿河で足利茶々丸対応の準備を着々と進める事になります。盛時が湯治客を装って修善寺温泉につかりながら茶々丸とその周辺の動静を探った、なんていう伝説もここから生まれます。
茶々丸は将軍義澄にとって母と弟を殺された仇ともいえる存在でしたし、足利政知とある程度の友好関係を結んでいた今川氏親とも対立するようになっていましたから、盛時の茶々丸対応とはつまり茶々丸討伐を意味することとなっていったと思われます。
1493年4月、事態はまず京で動きます。細川政元・日野富子(当初は足利義稙を支援していましたが、その後、義稙と対立するようになっていました)・伊勢宗貞がクーデターを起こし、足利義稙を追放、足利義澄を将軍として擁立したのです。世にいう明応の政変です。義稙の度重なる近江などへの遠征に厭戦気分が蔓延していた多くの大名たちも消極的支持に回っていたようです。
そして、それに呼応するように伊勢盛時も伊豆堀越御所の足利茶々丸を攻撃します。この伊豆打込みこそ戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)誕生の契機となるわけです。
言い換えれば、1489年の足利義尚死去から1493年の明応の政変迄の京の政局が、足利幕府の中枢にいた伊勢盛時をして、盛時自らの意思を超えて戦国大名へ変貌させていったと言えるのかもしれません。
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