北条早雲(伊勢宗瑞)の青春時代は応仁の乱の真っただ中
伊勢宗瑞の生まれについては備中荏原説と京都説があるようですが、どちらにしても多感な10代は京都にいたようです。この頃は伊勢新九郎盛時と名乗っていたようなので、暫くは盛時と呼ぶことにします。
盛時の生年につぃては1438年説と1456年説があるようですが、最近では1456年説が有力らしいので、ここでは1456年説を採用します。
宗瑞誕生から1460年代にかけては、伊勢氏で言えば、1460年に時の将軍義政から政所執事に任命された伊勢貞親の全盛期だったのです。伊勢貞親は宗瑞の父盛定の正室、つまり宗瑞の母親の兄弟です。また父盛定も貞親の外交交渉面での補佐をしていたので、宗瑞はかなりの至近距離で政治の中枢をうかがい知ることができたのではと思います。
また1460年には長禄寛正の飢饉が起こりました。京だけで8万人ほどが餓死したと言われるほど凄まじいもので、地方からも戦禍と旱魃で流民化した民衆が京に流れ込んできました。流民が京に流れ込んでくるのは、当時、京の寺社や商人が飢えた民衆に施しを与えたからと思われます。
応仁の乱の激戦地 百々橋跡
そして1467年に応仁の乱が勃発します。この時、盛時は数え12歳です。前年の1466年に細川勝元と対立した伊勢貞親が近江に逃亡する文正の政変が起こり、父盛定も貞親について近江に逃亡したので守時も同様に京を離れたのでしょうが、翌年、貞親は応仁の乱勃発と同時に義政から京に呼び戻されているので、盛時も同様京に戻ったと思います。
つまり、盛時の多感な10代は、その時期日本を襲った旱魃、長雨、寒冷気候による飢えた流民たちが京という町にひしめき、その中で果てるともない戦いを繰り返した応仁の乱という戦乱の中で過ごしたと言えるのかもしれません。
この時点で盛時が室町幕府という傘の下から飛び出して自らの力で領国を支配する大名として名を馳せようなどと思ったりはしていないと思いますが、これから自分がどう生きていくにしても、幕府という既存の権力では制御しきれないこの社会の状況は所与のものとして考えなくてはならない、くらいは思ったかもしれません。惣村を基盤として武士の力だけではその要求を抑えきれない農民たち、世の乱れに呼応して略奪を繰り返す流民たち、その流民たちが軍事力として武家に抱えられた足軽たち、幕府の統制が利かなくなった有力大名たち、金の力で勢力を拡大している土倉などの商人たち、それぞれがその時々の情勢で合従連衡を繰り返す流動的な社会情勢と権力構造。それらがしっかりと盛時の脳裏に刻まれたのは間違いないような気がします。
そしてこの時期、もう一つ盛時の生涯を決めるうえで決定的な事が起こります。盛時の姉妹の北川殿と今川義忠の婚姻です。
#北条早雲 #伊勢宗瑞 #応仁の乱 #中世史
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