姉妹北川殿の結婚が伊勢盛時と駿河を結びつける

 

歴史上この結婚が無かったら歴史は変わっていたかもしれない、と思わせる結婚がいくつかあります。真っ先に思い浮かべるのは源頼朝と北条政子の結婚で、これがなければ、頼朝の幕府成立はもっと遅れていたかもしれないし、ことによったら無かったかもしれない。少なくとも北条氏の執権政治は実現しなかった可能性が高いと思います。

 

伊勢盛時にとっても、姉妹である北川殿と駿河の守護今川義忠の結婚は大きく彼の人生を左右しました。もしこれがなければ関東の覇者北条氏という歴史は無かったかもしれません。

 

当時、盛時の父盛定は時の政所執事伊勢貞親と側近として主に外交面を担っていたので、その関係で駿河の今川義忠との交流がありました。今川義忠としては幕府とのパイプとしての盛定の存在は大きかったので、その娘の北川殿と婚姻関係を結ぶことは極めて効果的であり必然的な事でありました。

今川義忠と北川殿の結婚は1467年頃と考えられています。1473年には二人の間に龍王丸、後の今川氏親が生まれますが、ほどなく不幸が訪れます。1476年、今川直義が遠江遠征中に戦死してしまうのです。この時、龍王丸はまだ4歳でした。今川家では家督を巡って龍王丸派と義忠の従弟である小鹿範満派の間で争いが起こりますが、この時は範満が堀越公方の足利政知と扇谷上杉定正の後ろ盾を得て、龍王丸が成人するまでは家督を暫定的に次ぐという調停が成立します。

太田道灌が扇谷上杉定正の命を受けて、小鹿範満支援の為に駿河に進駐したのはこの時の事です。伊勢盛時も京から駿河に下り、龍王丸派を支援すべく小鹿派との調停に奔走したという説もありますが、これは現在では伝承の域を出ないと言われています。

 


伊勢盛時が駿河に下るのは1487年のことです。龍王丸は既に元服できる年齢に達していましたが、範満が家督を譲ろうとしないので、北川殿と龍王丸は京の伊勢盛時に助けを求めたのです。この時、盛時は将軍足利義尚の奉公衆となっており、1479年に既に足利義政から龍王丸本領安堵の御教行を得ていたことから、おそらくは将軍義尚及び側近細川政元の許しも得た上で駿河に下ったものと思われます。つまり、盛時は北川殿と龍王丸から頼みとされる地位と環境にいたわけです。そして、11月に駿府の小鹿範満を討ちます。

この時、以下の2つの理由で盛時は最初から小鹿範満を武力で打倒しようと考えていたと思います。

1.   応仁の乱を身近に経験した盛時は、既に足利幕府の権威が十分に機能していないことを感じていたので、この問題は幕府の権威を後ろ盾とする調停では最終決着にはならないということを肌感覚として持っていた。

2.  前年の1486年には扇谷上杉家の家宰太田道灌が主君の上杉定正によって謀殺されており、また扇谷上杉家も山内上杉家との対立が深まり、武力抗争に発展している(長享の乱)ので、扇谷上杉定正に駿河をかまっている余裕は無かった。

こうして、世の情勢が伊勢盛時をして小鹿範満討伐に向かわせたのです。

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