北条早雲あるいは伊勢宗瑞を調べていく楽しみ

 かつては北条早雲は浪人の身から下剋上を繰り返し大名まで上り詰めた戦国大名と学校で教わったものだが、現在ではそういうことを言う人はいない。北条早雲という名も伊勢新九郎または伊勢盛時もしくは出家してからの伊勢宗瑞という名に置き換わってきている。何故なら、北条早雲は存命中に北条早雲と名乗ったことは一度もないからです。

伊勢宗瑞の備中伊勢氏は桓武平氏維衡流(伊勢平氏)の中では庶流と考えられているが、父親の盛定は足利義政の下で政所執事となった伊勢貞親とは義理の兄弟関係にあたるので、伊勢宗瑞は浪人どころか政権の中枢を担う華麗なる一族の末端に連なっていたわけで、宗瑞が戦国大名として伊豆や相模を支配する以前に足利義尚や足利義材に仕えていたのは、こうしたバックグラウンドがあったからです。



 戦国大名伊勢宗瑞を考えるうえで、この華麗なる一族の末端という立ち位置をどうとらえるかによって見方はかなり変わってくると思われます。

要は、

1.伊勢宗瑞は有力政治家一族の末端にいることで、当時の社会情勢や京の政治環境に振り回されつつ、エリート官僚的感覚で問題を処理していたら、気が付いてみたら結果的に戦国大名への階段を上っていた。

2.伊勢宗瑞は有力政治家一族の末端にいることで、当時の社会情勢や京の政治環境を積極的に利用して自らの野望としての戦国大名への階段を上った。

かのどちらかです。

結果論で見れば、そんな事はどちらでも良いのですが、過程を見るという事では、伊勢宗瑞の立ち位置によってその時代の経済・流通・権力・権威の有効性等の社会環境とかかわり方が変わってくるように思えますし、そのかかわり方がその時代の社会の要請に密接に関係している以上、それは取りも直さずその時代の社会の実像を浮き彫りにすることになりはしまいかと思ったりするのです。

 

室町後期という時代は、幕府が統治者としての力のかなりの部分を失いつつも、ある程度の社会のタガとなっていた時期。しかし、経済・流通・領主支配等の自由度が飛躍的に伸びた時代でもあって、その社会の波動が結果として幕府というタガを破っていく時代ともいえるので、その意味で、応仁の乱以降戦国大名の成立までの時代に生きた伊勢宗瑞の生涯は当時の社会の鏡となっているのかもしれず、そこに伊勢宗瑞を調べていく楽しさがあるのではないかと思うのです。

#北条早雲 #伊勢宗瑞 #中世 #戦国大名 #小田原


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