観応の擾乱 漂流する願望と現実

 観応の擾乱という壮大な兄弟喧嘩とは何だったのだろうか。

そもそも、兄弟で争う意思があったのだろうか。足利尊氏、足利直兄弟義双方にその強固な意思は見えない。

観応の擾乱を

1.直義による高師直の官職追放、その後の高師直の御所巻きと直義の逼塞(1349年6月~)

2.直義の巻き返しと高一族の滅亡(1351年1月~)

3.尊氏、義詮の直義追討と直義の死、それ以降の関東での戦い(1351年10月~)

の三段階に分けるとして、

高一族が滅ぼされた時期以降に、感情的に兄弟互いに感情的に憎むことはあったかもしれないが、それでもそれは兄弟喧嘩の域を出ず、幕府の在り方をめぐるイデオロギー闘争でも、権力闘争でもなかった。

兄弟の感情的な対立としては、尊氏の庶子直冬の処遇を巡る対立が考えら、これに関連した尊氏の嫡子義詮の尊氏後継に関する其々の思惑でのすれ違いも考えられるが、それが原因で兄弟殺し合いに発展するとは、そもそも仲の良い足利兄弟の場合、考えにくい。



 基本的に幕府運営上の思想の対立は高師直と足利直義の間にあり、尊氏積極的にこれに関わらず執事である高師直の上に乗っかっていたに過ぎない。問題は、この高師直・足利直義の幕府運営方針の対立に乗じて、己が勢力の伸長を図ろうとした武家達だ。

 

直義の政治思想は、鎌倉幕府的秩序を尊重し維持することであるので、寺社・公家の大半はこの直義の思想を支持していたと思われる。それに対して高師直の思想は朝廷や寺社といった伝統的権威を軽視し、武家の権益を拡大することを目指すことにあった。そうであれば、武士たちにとっては高の思想こそ己が勢力を伸長させるのに好都合なのであるから、こぞって高の側に付くと思いきや、実際はそうはならない。例えば有力御家人の様に鎌倉幕府体制を維持した方が好都合というケースもあり、武士たちにとっても、全て力で片を付けようかと言わんばかりの高の思想では対応しきれないという現実もあり、逆に現状の領地の保全という意味では直義の思想にも一定の理はあったのである。

武士たちはその時その時の己が置かれた状況に応じて直義と高の思想を天秤にかけたろうし、またどちらの勢力が優勢かに応じて立ち位置を変えただろうし、自分の敵対勢力が尊氏・高か直義かどちらについているかによりつく側を変えただろうし、ということで直義・高どちらに加勢するかはかなり流動的であったと思われる。擾乱を通じて味方する側を変えた例は、尊氏・高派→直義派→尊氏派と変わった細川顕氏や畠山国清、尊氏・高派→直義派へ移った今川範国や山名時氏等、一つ二つに止まらない。武士たちにとって、現実はこのように自分の権益保全・拡大という観点から日々目まぐるしく変化する情勢の中にあった。

 

ただ、東国の武士たちの底流に流れているものは、鎌倉体制の下で所有していた既得権や領地と倒幕からこの度の擾乱にかけて得た権益、領地を守りたいという強烈な思いで、それを毀損するような動きにも見える高の動きは不愉快なものであったということがあり、一方西国の武士たちにとっては、倒幕からこの度の擾乱にかけて新たに得た権益を守ってくれるのは高であり、願わくばその上にいる尊氏だったという事ではないだろうか。

 

この基本的な思いと上記現実の乖離は、願望と現実の乖離は、尊氏によって調整、統合されなければいけなかった筈だが、尊氏がそれを放棄してしまった以上、それが勝手に漂流を始めたという事で、その漂流こそ観応の擾乱そのものと言えるのかもしれない。

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