与野党対決から与党派閥抗争へ 観応の擾乱前夜

 1336年に建武式目が制定され、1338年に足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられると、足利幕府は政権与党としての形が出来上がった。

一方、足利方から見れば野党である後醍醐方は1338年までに楠正成、名和長年、千草忠顕、北畠顕家、新田義貞といった戦闘部門の幹部を失い、1339年には後醍醐が崩御する。この後しばらくは北朝方と南朝方の小競り合いが続くが1347年に楠正行の蜂起後の高師直・師泰の南朝吉野攻略により南朝は北朝の脅威となるような軍事的な勢いを一時的に失う。

この間、足利幕府内では派閥抗争が次第に顕在化してくる。つまり、北朝方から見れば、与野党対立から与党内派閥抗争に移行するわけだが、野党である南朝も依然として無視できない勢力を維持していた。



与党内派閥抗争は基本的に高師直派と足利直義派の間で争われ、尊氏は何となく高派に担がれている感じになるが、直義派と対立関係にあるわけではない。この中途半端な状況は尊氏が派閥間の調整を行っていないという事の表れであって、言ってみれば調整能力を発揮しようとしない総裁の下で、勢力が拮抗する2派閥がいがみ合っているという構図だ。

この状況で何か起きない方が不思議だ。

尊氏を担ぐ高派は御恩と奉公をベースとする武士たちとの関係性の上に立ち、直義派は制度・組織により武士たちを統括していこうという立場だが、対立の根底はここにあるのではなく、むしろ鎌倉以来の利権を維持強化したい旧御家人である主に関東の武士勢力と、関西の悪党を含む新興武士勢力の対立という具合に考えた方が良いかもしれない。足利尊氏を首班とする鎌倉幕府の再興を目指す直義方に有力関東武士が多く集まっているのは、関東の武士勢力が尊氏と高師直・師泰が鎌倉幕府倒幕時に重用していた新興西国武士の台頭を危ぶみ、鎌倉幕府以来の既得権益を侵される可能性に対する危機感を抱いていたという事に他ならない。

この時代、既に伝統的権威というものが形骸化しているのは、例えば尊氏や後醍醐によって、都度の状況に合わせて即位と退位を繰り返した光厳天皇(上皇)の状況を観れば明らかである。

こういう状況の中で衝突が起これば、武士たちは理念や理想に関わりなくがむしゃらに自らの権益を守ろうとするのであるから、その権益維持拡大本能によって行動は規定される。派閥のトップである高、直義においてすらも、多かれ少なかれそうした発想は根底にあったと思う。そうなれば、政権奪取のためには与野党連立もいとわないという事になり、そういう流れで、観応の擾乱の最中に行われる直義の南朝との和議、尊氏の正平の一統というものがそれほど抵抗感なく現出するというのも頷ける。

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