足利尊氏の現実逃避

 源頼朝が平家討伐に向けて挙兵した当時、それに従った武士たちの心にあったのは、

「世の権力を都の貴族たちが一手に握り、その中でも平家の専横が極まるこの世の中、己の所領を安堵するという意味でも頼朝に付いて行ったら、何かより良い未来があるのではないか。」

という希望だった。

それが足利尊氏の時代となると、鎌倉期を通じてその地位と所領に一定の確信がもたらされた武士たちの心の内は

「己にとって、より良い未来をもたらしてくれるのは誰に付くべきか。」

という期待に変化した。希望から期待への変化。

もし、鎌倉幕府倒幕時に武士の心の内にあったものが希望という漠としたものであったら、源氏本流であったとしても尊氏は北条氏討伐に乗らなかったかもしれない。しかし、武士の心の内にあったものが具体的な成果を求める源氏本流への期待というものであれば、話として極めて切実なものになる。期待通りにいけば良し、期待を裏切った場合、悪くすれば自らの滅亡に繋がるとすれば事は穏やかではないどころか、それに恐怖すら感じるはずだ。以前にも、尊氏の倒幕モチベーションの一つは、この恐怖感だったと書いた。



 1336年5月に湊川で新田・連合軍を破った足利軍は、その勢いのまま京を占拠。後醍醐天皇の朝廷は未だ比叡に籠ってはいるものの、8月に持明院統の光明天皇を擁立し、足利尊氏を首班とする武士政権を打ち立て、建武式目の制定作業も始まったこの時期、尊氏としては、これである程度武士たちの期待に応えられたという気分になったのではないかと思う。というか、既に鎌倉幕府滅亡後の騒乱に倦んできた尊氏の現実逃避願望がここに来て噴出したのではないか。

光明天皇擁立と時をほぼ同じくして尊氏が清水寺に収めた願文は、この時の尊氏の現実逃避願望を正直に物語っているのだと思う。

「この世は夢のごとくである。願わくは尊氏に道心を与えてもらって、早く遁世したい。現世の果報に代えて後生を助けてもらいたい。今生の果報はすべて弟・直義に賜って、直義を安穏に護っていただきたい。」(清水寺願文)

 

尊氏の真情は、全ての権限を弟直義に移譲して完全引退という事だったろう。少なくともこの時期はそう思っていた筈だ。しかし、世の中そうは思い通りにならない。敵対勢力が厳然と目と鼻の先の比叡に存在するこの時期の幕府には、何よりも尊氏のカリスマ性が必要だったのである。中先代の乱で鎌倉を占拠した北条時行軍をものの1週間程度で打ち破り、九州多々良浜で10倍の敵に勝利するという奇跡を演じて見せた尊氏のカリスマ性である。

足利直義も高師直も、ここは一致して尊氏の弱気を攻め、尊氏を首班の座に押しとどめ、何とか尊氏のカリスマ性を保持したまま幕府の統治体制を築くのに必死だったと思う。

本来、幕府の創始者であれば、源頼朝であれ徳川家康であれ、カリスマ性は勿論の事、統治体制の構築と実務の最終的な掌握は自らに集中させるべきものであるが、当人が現実逃避を望む尊氏の場合はここが出来ていなかったし、する気も無かったという事で、これが10数年後の擾乱に繋がっていくのも必然と言えば必然だったのかもしれない。

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