孤立する後醍醐天皇は足利尊氏の懐に飛び込む

 後醍醐天皇の政治は、1321年のその即位の時から多くの朝廷の貴族たちにとって決して歓迎できるものでは無かった。というのも、後醍醐天皇の政治は、旧来から貴族の職の体系を否定し、同時に公卿の合議体を解体することで、政治の執行機関を天皇が直接掌握しようとするものであったからだ。その結果、日野俊基のように身分は低くとも実力によって取り立てられる者もいたが、逆に代々受け継がれた既得権益を失う者も多く出てくる。

従って、1333年に鎌倉幕府滅亡に伴い建武新政権が樹立した時には、既に貴族たち中に後醍醐天皇に反感を持つものが多く存在したし、鎌倉幕府討伐戦後の領地政策の失敗による武士からの反発もあり、建武新政権は樹立直後からその基盤は揺らいでいたと思う。



1336年7月、湊川で新田・楠連合軍を破った足利尊氏が京に迫ると、後醍醐天皇とその取り巻きは京を捨てて比叡に逃げるのだが、この段階で多くの貴族から後醍醐天皇個人に対する支持は失われていて、天皇がだれであろうと足利尊氏の政権下で失った既得権益を取り戻そうと考える貴族たちの多くは京に残ったと考えられる。

建武新政時の領地分配政策に不満を持ち鎌倉幕府討伐戦で得た領地の安堵を望む武士たちと、既得権益と家の存続を願う貴族たちの期待を一身に受けた足利尊氏の決定的優位はここで顕著になったのであり、一方の後醍醐天皇は孤立感を深めることになる。

しかし、後醍醐天皇にとってはどんな形であろうと天皇であり続けることが第一義であり、天皇でなくなれば、その理想とする政治を復活させることもできない。その為には、武力での形成挽回が困難になった状況下では足利尊氏との妥協などは大した問題ではない、というのが後醍醐天皇の発想であっただろうから、足利尊氏と和議を結び京に戻ったのは、後醍醐にとって至極当然の行動だったと言える。そして、足利尊氏の最大の武力対抗勢力であった新田義貞を簡単に切り捨ててしまったのも当然の帰結だった。後醍醐天皇が注意深い人間の観察者であったなら、現実受容型の足利尊氏の懐に飛び込んでしまえば、時間をかけて足利尊氏との力関係を逆転させていくことは十分可能だと考えた筈だ。1336年10月の後醍醐天皇の京への還行はこうして為されたのである。

だが、その後3カ月を経ずして、後醍醐天皇は吉野に逃れる。これは京に戻ると同時に、ほぼ軟禁状態となり、自らの実質的な復権は期待できないと考えたからだが、要は京の貴族たちの動向を見誤っていたと思わざるを得ない。おそらく後醍醐天皇は京の貴族たちを再統制して権力を徐々に再構築していこうと考えていたのかもしれないが、京の貴族たちは諸手を挙げて後醍醐天皇を受け入れたわけではなく、むしろ距離を置いたと思われ、情勢判断の誤りにすぐに気づいたというべきだろう。

となれば京を脱出、という後醍醐天皇の行動力は恐るべきだが、「厄介な御仁が近くからいなくなってくれてホッとした。」と語ったという足利尊氏の気持ちは本音であっただろうと思わざるを得ない。

 

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