会下山 湊川戦場一望の地は、楠正成滅亡覚悟の地



 13363月、九州に上陸した足利尊氏は、博多近郊の多々良浜にて、2千の軍勢で菊池氏を中心とする2万の九州武家連合を奇跡的に破った。と言っても、九州武家連合で明確に後醍醐朝廷側として戦ったのは菊池知武敏と阿蘇惟直の2千数百の軍勢のみで、あとは武家政権の親派で戦況次第で加勢する側を決める日和見勢力だったので、尊氏の勝利は約束されていたものでは無いにしろ、奇跡的とまではいかないものだったと思う。おそらく、戦いを前にして、尊氏は九州の武家の動性を注意深く探っていただろうし、事実、戦いが始まり、足利勢の積極的な戦いぶりを目の当たりにした九州勢の中には松浦氏など早々と足利方に寝返る者が続出した。

この戦いの後、大宰府で陣容を整えた尊氏は、4月、いよいよ九州を発ち京に向かって進軍を開始する。途中の鞆(広島県鞆の浦)で軍勢を二手に分けた足利軍は、陸路山陽道を弟直義が、海路を尊氏が東に向かう。一方、これを迎え撃つべく京から西進する新田義貞軍は赤松円心が立て籠もる播磨白旗城の攻略に手間取り、足利軍東上を知るや兵庫まで退き、ここで足利軍を迎え撃とうとする。

ここまでが、湊川の戦までの経緯だ。

13365月の湊川の戦いは、その戦局の経緯を簡単に言ってしまえば、湊川西方の会下山に陣を張る楠正成と兵庫和田岬に陣を張る新田義貞が、足利尊氏船団の陽動作戦により東西に分断され、ここに分け入った尊氏軍と山陽道から攻め上る直義軍に挟み込まれる形で楠軍が壊滅し、新田軍も足利軍に押されるがまま京に向かって撤退するという事になる。

 

楠正成が布陣した会下山は、神戸電鉄有馬線湊川駅から歩いて20分くらいのところにあり、現在は公園になっていて、山というより小高い丘という風情だが、頂上への坂は結構厳しい。

山頂に立ってみると、和田岬から生田にかけて、兵庫の街並みが一望できる。ここからなら、和田岬沖に展開する足利尊氏の船団や、それが東に向かって陽動し新田軍を混乱させる様や、和田岬に自軍と新田軍を割って入るように上陸してくる足利軍をまさにパノラマ・ビューのように克明に望むことができる。という事は、取りも直さず、楠正成にとっては自らの滅亡の運命も明確に見て取れ、その運命を覚悟したという事でもあったろう。

この勝利の見込みがほぼあり得ない絶体絶命の期に及んで、何故、正成は背後にある六甲の山中に逃げ込み再起を図ることなく滅亡を選んだのかについては様々な憶測があるかと思う。鎌倉幕府討伐の戦いに際して赤坂砦や千早城で粘り強く戦い抜いた楠正成のイメージからは遠くかけ離れているように見えるが、建武政権内で孤立し、政権に絶望し、後醍醐天皇の側近からも疎まれていた状況が正成の心に与えたダメージはそれほど大きかったという事かもしれない。

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