赤松円心 愚直にして不運
赤松円心(則村)という武将がいる。播磨の悪党と言われる。
楠正成が一貫して後醍醐天皇に忠誠を尽くしたのに対し、赤松円心は愚直というべきか、一貫して足利尊氏を支えた。円心は、2千の兵で、6万の新田義貞軍からおよそ2か月にわたり播磨の白幡城を守り抜いたほどで、軍略家として正成に勝るとも劣らぬ武将だが、尊氏方、北朝方という事で、長い間評価されず、名もそれほど知られなかった不運な武将だ。
1333年の元弘の乱に際して、赤松円心は護良親王の綸旨を受けると、六波羅探題に反旗を翻し、これを攻める。最終的に六波羅探題に返り討ちにあうが、一時は六波羅探題とは目と鼻の先の三十三間堂辺りまで攻め込むほどの戦ぶりだった。後醍醐天皇が隠岐に配流になった後も、六波羅探題との戦いを継続し、足利尊氏が丹波篠村で旗揚げをするとこれに呼応するように千種忠顕らと京に侵攻、六波羅探題を攻め滅ぼす。
その後、後醍醐天皇新政権下では不遇を囲い、切望していた播磨国の守護の地位も与えられず、領地の佐用に帰る。不遇の原因は、当時の朝廷内の阿野廉子派と護良親王派の権力争いで、円心は敗れた護良親王派に属していたからとも言われるが、楠正成も護良親王と懇意の間柄だった事を考えると、これにはちょっと首をかしげる。むしろ、六波羅探題を攻め滅ぼした軍功一番の武将でありながら、正成に比べ後醍醐天皇からの処遇がかなり劣っていたのは、もしかすると、円心という人間が持つ、土着の地方武士特有の土臭く愚直な性格が後醍醐天皇と合わなかったのかもしれない、と思ったりもする。
円心には正成が持っていたであろう都風の作法や、尊氏のような和歌への憧憬といったものは無かった。ただひたすら、土地に執着し、領地の拡大を期待し、家の存続を願う地方武士の典型であったと思う。円心は悪党なのだが、楠正成や名和長年に見られるような商業・流通への傾斜は見られず、既に鎌倉末期から徐々に広がり始めた初期的なコマーシャリズムに目覚めていた後醍醐天皇にとっては、前時代の田舎武士にしか見えなかったのかもしれない。
この新政権における不遇が、円心が、後年足利尊氏が後醍醐天皇に対して反旗を翻した後の極めて劣勢な時期も、裏切ることなく尊氏を支え続けた要因の一つだ。1335年1月、京から兵庫に落ち延びた足利尊氏に、九州への撤退とそこからの巻き返しを献策したのは円心だと言われ、上記の白幡城での新田勢防戦によって尊氏の九州からの東上の時間を稼いだ事などを考えれば、尊氏による京の奪還、室町幕府開府における功績は大きかったと言える。
兵庫県上郡から智頭急行に乗って2駅目、河野原円心という駅がある。駅に降り立つと、駅前に人家無く、コンビニ無く、バス停もなく、駅前からいきなり田園が広がる。ここに例の白幡城があるので、駅には落ちない城にかけて受験合格祈願の絵馬掛けがあるのだが、絵馬は一つも見かけなかった。
駅から20分ほど歩いたところに赤松円心館跡があるのだが、館跡の立て札があるだけで、あとは空き地が広がるばかりである。ここから更に10分ほど歩くと、白旗城跡という大きな看板と、その後ろに広がる小山が見えるのだが、そこに築かれた城もしくは砦が、例えば正成の金剛山の急勾配を利用した堅固な千早城のような山城だったという事はなかなか想像できない。前を流れる千種川が守りの上で要害であったと言えなくもないが、これも彼我の兵力差を考えれば、おぼつかない。敢えて言えば、この地は中国地方の交通の要所であった佐用にあって、その分、新田方の動きに関する情報もかなり入って来ただろうし、地の利を得て、寡兵ながらも、それを迅速効果的に動かすことができたという事は言えるかもしれない。でも、どうしてここを2千の兵で6万の新田方から守り抜けたのか、という疑問は残ったままだ。
それでも、河野原円心駅から隣の苔縄駅までは白旗城址などを回り道しても歩いて1時間ちょっとの距離で、天気が良ければ、日本の田園風景を楽しみながら散歩したというだけでも良い時間が過ごせたという気にはなる。
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