京の無防備こそ権力の象徴

 雨の日は京都一乗寺の詩仙堂が緑が映えて綺麗だというので、梅雨の雨が緑を濡らしていた6月のある日、叡電一乗寺駅で降りて歩き始めると、宮本武蔵と吉岡一門の決闘の地という石碑の横に、大楠公戦陣跡という石碑が目に入った。ここから修学院を超えて北へ行くと比叡山への京側からの登り口の八瀬があるので、なるほど、ここが1336年1月から2月にかけて繰り広げられた京の攻防戦で楠正成布陣の地というわけだ。



1336年1月、大渡で新田義貞を打ち破った足利尊氏は京に入り、後醍醐天皇の朝廷は比叡山に逃げる。しかしそれも束の間、東北から北畠顕家軍が到着すると後醍醐天皇側は反撃を開始、粟田口から新田義貞、一乗寺にから楠正成、そして吉田山(銀閣寺の西方)から北畠顕家が、三条河原に布陣していた足利尊氏に襲い掛かる。



太平記によれば、粟田口の将軍塚に登った新田義貞が鴨川方面を見渡すと、北は糺(下鴨神社付近)から南は七条まで軍兵たちの幟で埋め尽くされていたというから、数万の兵たちが、京市街のここそこで数日間死闘を繰り広げていたわけだ。戦いは足利軍を囲むように攻め立てた後醍醐天皇方が優勢となり、足利尊氏は丹波を目指して京を落ちることになる。

尊氏敗戦の理由は、後醍醐天皇側撤退時に内裏まで焼かれてしまった町では兵の食料を確保することも難しく、また連戦で兵の疲労も極限に達していたなど様々あるようだが、根本的に京という町がどこからでも攻められるという地理的条件を持っていたためだと思う。この時も、粟田口、一乗寺、吉田山と東三方から主力で攻められた。それ以外でも、南は巨椋池があるものの、南東の宇治方面、南西の山崎・大渡方面と攻め口はより取り見取りだ。

後に尊氏が九州から再度京に攻め上って来た際に、楠正成が「京は守るに難いので、一旦比叡に退き、その上で敵の補給路を断ち、敵が弱ったところを攻めるが得策。」と献策したのは戦略的には正しい。

しかし、京という町は、そもそも遷都の時からして軍事的に防衛するなどという発想無しに作られている。8世紀終わりの平安京遷都時は、飛鳥京~平城京の時代と違って大陸からの脅威は無くなっており、西国からの軍事的脅威など想像すらできなかったし、東国にも脅威となる勢力は無かった。つまり、小規模な諍い事はあっても、誰かが強大な軍事力をもって京に攻め上ってくるなどという事は全く考える必要の無い、それだけの権力と権威を兼ね備えた天皇が君臨する町だったのだ。また、この国を支配するという事は、そういう無防備な町にいても、誰も責める気になれないほどの権力・権威を持っているという事に他ならない。

上記の楠正成の戦略的献策に真っ向から反対した後醍醐天皇の側近坊門清忠は、そうした当時の常識の上に立っていたのであり、当時の為政者の感覚として至極真っ当に反対したに過ぎない。それは、一度、尊氏に京から比叡に追い落とされた経験があったとしても、その常識を覆すには、あまりに時間が短く、意識の底にこびりついた感覚を削ぎ落すまでには至らなかった、という事なのだろう。

ここに、権威を発想の中心に置き、それが長い時間をかけて意識の底に沈殿した伝統的権力者と、実利を発想の中心に置き、時世の流れに敏感で対応が柔軟な悪党に代表される新興権力者の決定的違いがあるのであり、後年、究極の新興権力者である豊臣秀吉が京の聚楽第に政治の中心を移した際、京のあまりに軍事的な脆弱さに驚き、あたふたと惣構を築き始めたのも得心がいく。

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