大きく西に迂回して大渡・山崎から京を攻める足利尊氏
1335年12月、箱根・竹之下の戦いで勝った足利軍はそのままの勢いで京に迫る。守る朝廷軍は瀬田に千草忠顕、名和長年、結城親光を配し、宇治は楠正成、大渡・山崎方面は新田義貞、脇屋義助で固めた。一方、攻め手の足利軍は、瀬田に足利直義を向かわせ、足利尊氏は西に大きく回り込み、大渡に布陣し、細川定禅、赤松円心が山崎で脇屋軍と対峙した。
尊氏がわざわざ大渡に回り込み宇治を避けたのは、宇治川の対岸に楠正成が陣を構えており、戦巧者の正成と戦う事を避けたかったから、という事も言われているが、思うに、大軍を展開するには宇治よりも大渡・山崎方面の方が地形的に有利という理由もあったように見える。後年、本能寺の変の後、豊臣秀吉と明智光秀が戦ったのもここで、大軍同士がぶつかり合うに好都合な地形だと言えるかもしれない。
さらに想像を逞しくすれば、山崎から西に行けば、尊氏が鎌倉幕府倒幕の旗揚げをした足利領の丹波篠村があり、万が一戦いに敗れた場合でも、すぐに自分の領地に逃げ込み態勢を立て直しやすいという精神的安心感もあったのかもしれない。尊氏は多くの場合、様々な想定の下に戦いに臨み、前後を顧みず猪突猛進するケースは少ないと言われていて、そういう尊氏の性格が出ているように思える。
この地は木津川、宇治川、桂川の三川が合流して淀川となる地である。
現在、山崎はサントリーの醸造所で有名だが、山崎の戦いで豊臣秀長が陣を敷いた天王山の中腹にはニッカウヰスキーの創業に関わった加賀正太郎が建てた大山崎山荘があって、現在は美術館となっているが、ここからは木津川、宇治川、桂川が合流し淀川となる三川合流地が一望できる。豊臣秀長がここに陣を敷いたのは、戦場を一望できるというのが主な理由だ。
三川を挟んで大軍勢が対峙した場合、京側から来て布陣するより、大阪側から来て布陣する方が軍勢の展開上有利に見える。事実、この時の大渡の合戦も、山崎の合戦も大阪側に陣を構えた方、つまり足利尊氏と豊臣秀吉が勝っている。歴史にも浅からず知識を得ていた筈の明智光秀は250年ほど前のこの大渡の戦いを思い起こさなかったのか、とも思うが、そんな余裕もなく戦いに引きずり込まれていった、という事だろうし、考えてみれば、大阪方面から攻められた場合、京を防衛するのは、残念なことに、ここしかない。
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