箱根竹之下の戦いで見限られた建武新政

 足利尊氏・直義軍は133512月の箱根竹之下の戦いで朝廷軍である新田義貞の軍を破る。この時の足利軍の軍勢は20万余りとされ、7万の新田軍とは3倍ほどの兵力差だ。朝廷軍に倒して足利方朝敵軍が3倍ほどの兵力を有したという事は、公家優位の領地の配分等を巡って建武の新政に失望した主に東国武士たちの武家による政権復活への渇望が強かったという事に他ならない。



勿論、足利尊氏支持については濃淡様々であり、斯波、吉良、一色などの足利一門や重臣の高、上杉に加え、赤松、大友、少弐などの尊氏親派を除けば、その時々の戦況で様子見、傍観者を決め込む武士たちが大半であったが、しかし根底には武家政権の復活への願望という共通した感覚があったに違いない。そして、この段階でそれを体現できるのは足利尊氏しかいなかったという事だ。

13361月には京を落とした尊氏が、その後、比叡山に寄った新田、楠などの朝廷軍と奥州から帰還した畠山顕家軍に敗れ、九州まで追い落とされた時も、その武士たちの武家政権復活願望という共通感覚は変わっていない。13363月の九州多々良浜の戦いで、足利尊氏と対峙した九州武士たちが、菊池氏を除いて、戦いに積極的に参加せず様子見を決め込んだのもこのためだ。

梅松論に書かれているという、楠正成が尊氏九州落に際し奏上したという「新田義貞には人心収攬の器量が無い一方、足利尊氏には武士たちを惹きつける力があるので、ここは尊氏と手を結ぶべきだ。義貞がこの障害になるのなら義貞を討っても構わない。」という発言は、もし楠正成が武士たちの武家政権復活という共通願望を洞察したうえでの発言であるなら、結果的に天皇親政の否定という事になってしまう。正成の事だから、実際はその共通願望が見えていたんだろうが、自分を今の地位まで引き上げてくれた後醍醐天皇に対してまさか天皇親政を否定するわけにもいかず、こういう物言いになったのではと思う。正成は、既にこの段階で自分の身の危うさを薄々感づいていたのかもしれない。



箱根竹之下の戦いで足利尊氏が討ち取られていたらどうなっていたか分からないが、この戦いに勝ち、京を落としたという事実が、武士たちの武家政権復活願望という共通認識を決定的なものにし、建武新政は武士たちに見限られたと言ってもよいかと思う。

仮に竹之下で足利尊氏が討ち取られていたとしたらどうだったろう。尊氏方には足利直義を含め尊氏にとって代われるような人材はなかなか見つからず、新田義貞も含め西国の諸将は器量不足、楠正成は身分が伴わずという事であれば、暫くは建武政権は維持されただろうが、いずれ不満を持つ武士たちによって内部崩壊し、全国の武士を統合する勢力も現れず、百数十年ほど早く戦国時代に突入していたかもしれない。

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