南北朝へのカウントダウン

 1335年の中先代の乱こそ、足利尊氏と後醍醐天皇の間の亀裂を深め、後の南北朝の発端となったと言われているが、8月、足利尊氏が北条時行軍を破り鎌倉に入った後の事を淡々と書き連ねていくと以下の通りとなる。複数の資料を使っているので、それぞれの事象の時間が前後している可能性はあるけど。

819日 尊氏鎌倉入り

8月末日 尊氏、従二位に叙せられる

9月   尊氏、諸士に恩賞を与えるべく袖判下文を発給

10月 鎌倉幕府の旧地に侍所を設置。恩賞沙汰の処理を行う。

   後醍醐天皇、中院具光を鎌倉に送り、恩賞沙汰を取りやめ尊氏が上洛するよう伝える

   直義等尊氏の近臣は帰京すれば尊氏の命は無いと、これに反対

112日 足利直義、全国に新田義貞討伐の檄文の発送を開始

11月   護良親王の世話係の女房が上洛し、親王殺害の状況を奏上

1118日 尊氏、後醍醐天皇に新田義貞追討の奏状を送る

1122日 後醍醐天皇、尊氏追討の綸旨

1123日 足利直義、鎌倉を出陣。尊氏は浄光明寺に引き籠る。

1126日 後醍醐天皇、尊氏、直義を解官

1127日 矢矧合戦、新田義貞軍、直義軍を破る

125日 手越の合戦、直義軍敗退

1210日 四国の細川禅定蜂起の報せが京に届く

1211日 尊氏、鎌倉を出陣し足柄の竹之下へ出陣

1211日 直義、鎌倉を出陣し箱根に布陣

1212日 竹之下の戦いで、尊氏、脇屋義介軍を破る

1213日 尊氏、新田義貞追討の軍事督促状を送る


書き連ねて思うことは、特に
11月以降は実に目まぐるしく事態が動いているという事だ。当時の京・鎌倉間の飛脚は、どんなに急いでも34日は掛かったと言われているから、情報を吟味し議論する時間まで含めると、互いのやり取りにかなりの行き違いがあった可能性がある。十分な裏も取らずに、ある意味、見切り発車の連発みたいな状況だったんじゃないだろうか。

例えば、尊氏が勝手に関東の領地を恩賞として参陣した武士たちに与えたことや、各地の武士に宛てた新田義貞追討の文書を見て、尊氏に謀反の兆しありとみた後醍醐天皇が1122日に尊氏追討の綸旨を出した時には、18日の尊氏の奏状はまだ後醍醐の手許に届いていなかった可能性がある。そして23日の直義出陣に至っては、それまでの情報に基づく状況証拠から、追討軍の来襲を確認することなく、先手を打つ形で出陣したとしか思えない。

尊氏が23日の出陣に加わらず、浄光明寺に引き籠ってしまうのは、自分の事、を真意は別として、官位まで含めて武家の頂点にまで引き上げてくれた後醍醐天皇との戦いに迷いまくっていたからだが、それに対し直義は相手の出方に係わらず朝廷側との戦をやる気満々だったのである。

この戦いは、幕府の復活を恐れる後醍醐天皇と、幕府の再興を目論む足利直義に乗せられた足利尊氏の戦いと言える。

歴史の転換は、こんな具合に、短期間での出来事が、それまでに蓄積された政治・経済・社会の歪みを一気に表出させた時に起こるのかもしれない。南北朝へのカウントダウンはこうして始まったのである。

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