尊氏の不可思議な求心力あるいは底が抜けた盥の薄気味悪さ
後醍醐天皇は足利尊氏と対面した時の印象を「底が抜けた盥のような人物。」と評したと言う。それは捉えどころのない大器という意味だったのか、何でも放り込めるが何も溜まらない無能という意味だったのか。
ただ、後醍醐天皇や楠正成を含む一部の人間たちは(赤松円心もその一人だったかもしれない)、尊氏に自分の理解をはるかに超えた所に存在する薄気味の悪さを感じていた可能性がある。その薄気味の悪さとは、尊氏の不可思議な求心力と言って良いかもしれない。
後にそれは、後醍醐天皇にとっては自らの権謀術数では尊氏をどうすることもできないという焦燥感で表れ、楠正成にとっては、尊氏は負けても負けても武士からの人望が揺るがない欲得を超越した何者かという畏れで表れた。後醍醐天皇が尊氏に敵愾心を持っていた護良親王を征夷大将軍の座から下ろし最終的に鎌倉に流したのも、勿論、阿野簾子と護良親王の対立等様々な政治的要因はあったにしても、護良親王に肩入れして尊氏を抹殺してしまう事に対する漠然とした不安感が心底にあったからじゃないかと思う。
不可思議な求心力が働く素地は土地の利権をめぐって反発しあう公家と武家によって作られる。不可思議な求心力とは尊氏の無私に起因している。私を鮮明に打ち出さない、後醍醐天皇にも武家にも偏らないようにも見える、やる気のなさというノンポリ中立。無私と言えば聞こえは良いが、逆に言えば何一つとしてまともに考えていないとも言える。公人としての振る舞いも私人としての損得も。京の尊氏邸に朝から山と積まれた貢物も、尊氏は誰彼となく分け与えてしまうので、夕方になると殆ど何も残らない、というような話もそんなところから来ている。貢物を贈って来る者の事も分け与えてしまう者の事も、公人としての自分にどう関わって来るのか、などと考えていた形跡はない。
尊氏としては、源氏の嫡流に最も近い存在であるという事実を淡々と自然体で受け入れていて、その事が引き起こす自分に対する様々な事象に殆どの場合受け身で対応していたという事だろうと思う。この時点では、尊氏は後醍醐天皇が作ろうとしている世の中の仕組みに積極的に関与しようとしなかったし、ただ後醍醐が作る世の流れに身を任せていたに過ぎない。もちろん弟直義が既に明確に思い描いていただろう鎌倉武士政権の再興というようなことも考えてはいない。
そういう捉えどころの無さが、見方の依っては天下を治めるほどの大器だろうし、見方に依っては捉えどころのない昼行燈ということになる。
ただ、それは尊氏に出会った者たちの印象に過ぎない。
建武政権発足後「尊氏なし」と言われていた間は、そうした尊氏の存在感は、あくまで印象の範囲を出ないものだったが、1335年に起こった中先代の乱が図らずも尊氏の後醍醐天皇や楠正成が抱いていた薄気味悪さを具現化してしまうという事になる。
1335年の北条時行による中先代の乱から、護良親王鎌倉配流から1336年の足利尊氏の京占拠までをザックリ追ってみると以下のようになる。
1333年12月 足利直義、成良親王を奉じて鎌倉に下る。
1334年11月 護良親王鎌倉配流
1335年 7月 中先代の乱、北条時行鎌倉侵攻と足利直義の鎌倉落ち
1335年 8月 足利尊氏、京を発ち直義救援に向かい鎌倉奪還
1335年11月 後醍醐天皇、尊氏討伐を命ず。尊氏、浄光明寺に隠遁。
1335年12月 新田義貞率いる朝廷軍に直義苦戦。尊氏出陣。箱根竹ノ下の戦い。
1336年 1月 足利尊氏入京。
1336年 2月 足利尊氏、京での攻防戦に敗れ九州に下る。
1336年 5月 足利尊氏、再び東上。湊川の戦。京奪還。後醍醐天皇、比叡へ移る。
そして薄気味悪さの具現化は1335年8月に始まると言ってよい。
この時、弟直義の危機を知った尊氏は、援軍を組織・統率する上で必要と考える、征夷大将軍の拝命と関東八ヵ国の管領職という二つの要求を後醍醐に行う。しかし、これが却下されると、これに拘ることなく京を発つ。この尊氏の行動は、弟直義への愛情が、後醍醐天皇への尊崇を上回ったからとしか言いようが無く、尊氏という人間は理性を超えて感情で動かされる側面を強く持つという事なのだろうと思う。
この時、尊氏に付き従った人数は500ほどと言われるが、矢作の陣に着く頃には3万まで膨れ上がる。武士たちは、特に東国の武士たちは、尊氏が征夷大将軍であろうがなかろうが、そんなことは関係なく、ただ尊氏が動いたから自らも動いたという事だろうと思う。戦いに加わるという事は武士のDNAだ。鎌倉奪還という武士のメンタリティーに強く訴えるモチベーションと動いた先に何かがあると期待する武士の嗅覚が、現状打破の期待を膨らませている。それを吸い上げる尊氏の不可思議な求心力。
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