「尊氏なし」は尊氏には好都合
1333年6月に後醍醐天皇が京に入り建武の新政が始まると、記録所、恩賞方、雑訴決断所などの役所が設置された。
記録所は建武政権における中央官庁の最高機関として設置され、荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当したが、ここに武家では楠正成、名和長年が入った。記録所で裁き入れなくなった所領関係を管轄した雑所決断所には上杉、二階堂、高、楠、名和などの武士の名がみられる。恩賞業務の審議・調査のために設置した恩賞方には楠木正成、名和長年が任ぜられた。
新田義貞は鎌倉から上洛後の8月従四位上に叙され、後に天皇を警護する武者所の頭人となる。
武家から公家に政権を取り戻した後醍醐天皇と公家たちにとっては、尊氏は討幕勲一等ではあったものの、武家政権の復活という事を考えたときに最も危険な存在であることは疑いようもない。さりとて、武士たちの人望を集めている尊氏を露骨に政権から遠ざける訳にもいかず、名誉は与えるが政治的権力は与えないという方針をとった訳だ。
武士たちにとってみれば、足利尊氏こそ源氏の嫡流に最も近い存在であるので、政権内での役職は無くとも、武家の頭領であるという認識は変わっていない。この時点で、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕に関わる恩賞の不平等感、非公正感は武士の間に広がっておらず、頭領と仰ぐべき尊氏に役職が無くとも不都合感は無かった。むしろ役職が無い分、この後頻発する土地の分与に関わる公家と武士間の不公平感に不満を募らす武士たちの良い不満のはけ口になったのではないかと思う。
そして、足利尊氏本人は、苦手な官僚的な実務から解放されている一方、天皇からの偏諱、従三位となったことで昇殿が許されるという当時の武士では最高の名誉を得られたわけだから、文句のありようは無かったどころか、好都合だったと言わざるを得ない。武士たちから、源氏の頭領、頼れるお人と持ち上げられるのは気分が良いし、不満を持ち込む武士たちのも政治的な束縛が薄い分、それに調子よく応じていたのではないかと思う。
例えば、六波羅探題攻略の立役者の一人でありながら恩賞も役職も無かった赤松円心則村もそんな武士たちの一人で、この時期、円心は尊氏に不満を漏らしながら、一方で人として互いに信頼し得る関係を築いていったのかもしれない。後に円心は、尊氏がいかなる苦境に陥ろうと、尊氏を支える最も頼りになる武将の一人となる。尊氏も、赤松円心に限らず、不満を宿す武士たちに積極的に気を配っていた可能性は高い。尤も、配れるものは気持ちくらいしかなかったのだが、政治に直接の関わりが無かった分、自由に調子よく気配りをした。しかし、その気配りで築いた人間関係が、後の尊氏の最大の資産の一つになるわけだから、世の中何が幸いするか分からない。
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