後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏 すれ違う思惑
鎌倉幕府が滅んでしまうと、建武新政府の軍事を誰が掌握するかという点で、早くも後醍醐天皇,護良親王そして足利尊氏の三人の間で意識のすれ違いが起こる。
後醍醐天皇は治天の君として軍事は自らが掌握するべきだと考えているので、足利尊氏以下の武士たちは自らが決定する軍事方針の執行者に過ぎない。従って、征夷大将軍というステータスを他のだれかに与えるつもりはない。
護良親王は今回の鎌倉幕府倒幕については、1331年の元弘の乱勃発以来、比叡山の天台座主の身でありながら、後醍醐天皇の皇子として紀伊の山中を転々としながら不屈の精神で倒幕運動を繰り広げてきた自分の功績が最大なのだから、自分が新政権の軍事のトップに立ち、軍事を、つまり武士たちを掌握するのは当然だと考えている。しかし、大半の武士たちにとって、源氏の嫡流でも何でもない護良親王は、たとえ皇族であろうが、武士という同族的な意識の中では自分たちの頭領として認められない。従って護良親王は、建武新政権の制度として武士たちの上に立つという事をせざるを得ず、そのステータスを担保するという意味で、征夷大将軍は必須であったと言える。そして、当然のことながら、足利尊氏の存在は目の上のたん瘤という事になるわけだ。
一方、足利尊氏は、六波羅探題攻略時に西国の武士たちが自分のもとに集まって来たということや、鎌倉を落としたのは嫡男の千寿王を大将とする坂東武者たちで、実質的な大将の新田義貞にしても足利一門ということを考えれば、源氏の嫡流として、武家の頭領として武士たちを統括していかなくてはならない、と思っている。もっとも、尊氏自身がそういう信念を持っていたかどうかは疑問で、弟直義や高師直、上杉憲房あたりにガッツリ言いつのられていた可能性は高い感じがするけど。今後想定される北条氏の残党や反建武政権的武士たちとの戦いにおいて、既に実質的に武家の頭領としての自覚に芽生えている足利尊氏にとって、錦の御旗、征夷大将軍というステータスは自分の軍事行動を担保するうえで重要ではあるが、護良親王ほどの必須感は無かったんじゃなかろうか。
そうした後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏の思惑を背景に、鎌倉幕府滅亡後の事態は進んでゆく。
1333年
5月07日:六波羅探題滅亡。
5月22日:鎌倉東勝寺にて北条高時以下北条一族自害。鎌倉幕府滅亡。
5月23日:後醍醐天皇、船上山を発って上洛の途に就く。
5月30日:後醍醐天皇、鎌倉幕府滅亡の報せを受ける。
6月03日:護良親王、信貴山にあって軍勢を集める。
6月05日:後醍醐天皇、東寺に到着。
6月06日:後醍醐天皇、二条内裏に入る。
このタイミングで、後醍醐天皇は坊門清忠を信貴山の護良親王のもとに送り、
「騒乱の折こそ法衣を軍装に変え、戦いの場に身を投じたことは、是非も無い事だったが、戦いが終わった今となっては元の剃髪の姿に戻り、門跡におさまるのが望ましい。」
と伝えさせる。
後醍醐天皇にとっては、信貴山で軍勢を集めている護良親王の存在は、軍事面での権力闘争を引き起こす原因ともなりかねなかったから、早いうち取り除いておくべきものだった。
これに対して、当然、護良親王は唯々諾々と従う気は無く、
「新政権の基盤はまだ盤石ではない。まして足利尊氏が権力の座を狙っていると思しき現状では、むしろ自分が征夷大将軍となって武士たちを抑えるしかない。」
みたいなことを言って、坊門忠清を追い返す。
6月13日:護良親王、信貴山から赤松則佑ら大軍を引き連れて入京。
そんな状況下、足利尊氏は、これはややこしいことになりそうだぞ、と将来の不安を感じながら、護良親王の振る舞いを眺めていたんじゃないかと思う。
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