六波羅探題、鎌倉幕府の滅亡が早すぎる
1333年5月7日、丹波篠村八幡を出立した足利尊氏軍と呼応するように京に攻め込んだ赤松円心・千草忠顕勢によって、六波羅探題はあっけなく陥落する。
六波羅探題が落ちると、尊氏は早々にその六波羅に陣取る。
そもそも、尊氏は4月に丹波篠村に入ってから、何通かの書状を各地の縁故の武家に出してはいるものの、武家に対して軍勢催促状を積極的に出してはいない。これは、護良親王が積極的に各地の武家等に対し軍勢催促状を出していたのと対照的だ。
しかし、六波羅に陣取ると、京に馳せ参じてきた武士たちの到着状に積極的に証判を据えている。この時点ではまだ鎌倉は陥落しておらず鎌倉幕府は存続していたわけだが、足利が北条に代わって武家の実質的なトップに立つぞ、という意思表示ともとれる。
この時点では、尊氏の中で、倒幕という名のもとに北条氏が鎌倉で滅亡しても鎌倉における幕府という政治機構は存続し足利は北条氏の後釜に座るだけというイメージはあっても、幕府の長たる将軍になろうなどとは思ってもいない。
尊氏の許に到着状の証判をもらおうと集まって来る西国の武士たちも、北条が滅んでも幕府という枠組みは変わらないと考えていたのではないか。ただ、北条から足利に代われば、自分たちに与えられる自由度は増すと期待していたかもしれないし、鎌倉幕府の御家人制度が無くなれば、自分たちの社会的地位の向上による経済的な利益が増す、つまり荘園の領有や通商の利益が今以上に有利になるという期待はあったと思う。
あまりの北条氏の鎌倉幕府滅亡の早さに、足利尊氏も含め大半の武士たちは思考停止状態だっただろうし、状況に追いつけない。ただ、武士たちは、今回の北条一族の滅亡も鎌倉時代を通じて北条氏を中心に繰り広げてきた権力闘争の拡大版に過ぎず、鎌倉幕府の枠組みは存続し、鎌倉時代を通じて保証されてきた自分たちの社会的地位や権利、利権は少し拡大することはあっても大幅に変化することは無い、と心の底では考えていたんだろうと思う。まさか、このすぐ後に後醍醐天皇による急激なな政治体制の変化が来るとはだれも予想していなかったんだと思う。
もし、鎌倉幕府が鎌倉を数か月持ちこたえていたとしたら、武士たちは後醍醐天皇のやり方をある程度想像できたかもしれないし、北条の支配の後に来るものに対して何らかの心構えと行動を起こしていたかもしれない。意外と鎌倉における幕府が主を変えて存続したかもしれない。
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