足利尊氏 丹波篠村八幡宮での旗揚げ
1333年4月16日に京に入った足利尊氏の丹波篠村での討幕の旗揚げまでの行動は以下の通り。
4月16日 足利尊氏、軍勢5千を率いて入京。
4月20日頃 名越尾張守高家が7千の軍と共に入京。
4月27日 名越高家、足利尊氏、赤松円心の軍勢と戦うべく京を出陣。
名越高家は久我畷(現在の伏見区)方面へ、尊氏は北野から丹波口方面へ移動、桂川の西に布陣。名越高時、久我畷(現在の伏見区)で討ち死に。
同日、足利尊氏は桂川を渡河し,大江を越えて丹波篠村へ向かう。
そして27日から29日にかけて、丹波篠村から北条氏を討伐するから加勢してくれ、っていう文書を各地に送る。倒幕の旗揚げをしたことを天下に公言するわけだ。
ところで、尊氏が入京してから出陣まで10日余りの時間があったのだが、この間、何をやっていたのかというと、直義、上杉憲房、高師直などの側近と、旗揚げから六波羅探題攻略までのシナリオを作り、その下準備をしていたんじゃないかと思う。というのも、その後の展開が出来過ぎているからだ。
4月27日~29日 尊氏、各地の武将に討幕の呼びかけを行う。
5月2日 尊氏の嫡子千寿王が鎌倉脱出。
5月7日 足利尊氏、篠村八幡宮で願文を読み上げ、丹波篠村を出立。
尊氏、北野神社の東南、右近の馬場に布陣。軍勢5万に膨れあがる。
六波羅探題陥落。
5月8日 新田義貞、上野生品明神で旗揚げ。
5月10日 尊氏、六波羅探題があった場所に奉行所を作る。
5月11日 千寿王、新田軍に合流。
実に混乱なく討幕プロセスが進んでいるように見える。旗揚げ、西国の悪党たち反北条勢力の糾合、千早城を攻めている幕府軍の動向、六波羅探題攻略、これらをタイムスケジュールにどう載せていくか。これを綿密に策定していったんじゃないかと思う。さらに、東国での鎌倉攻めとの連携という意味で、足利一門である新田氏との連絡も、この間に行っていた可能性もある。新田義貞の旗揚げと千寿王との合流は、かなり仕組まれているように見える。
最後に篠村八幡宮のこと。尊氏が丹波篠村を旗揚げの地として選んだ理由は、一つはそこが足利家の領地だったという事と、もう一つは、京を窺う上で絶好のロケーションだったからだ。
篠村は京都から電車で行くと、嵯峨を過ぎ保津峡を越えたところにある。JRの駅でいうと馬堀が最寄り駅だ。足利尊氏旗揚げの地と言われる篠村八幡宮から国道9号を南東に行くと例の明智光秀苦渋の決断の老ノ坂だ。ここから東に進めば桂離宮の辺りに出るし、南東に進み続けると山崎の辺りに出る。桂までは歩いて3時間、山崎までは歩いて6時間弱の距離だ。いずれにしても、半日あれば京に攻め込める。
一方、攻められた場合は、西に逃げ明智光秀の亀山城があった亀岡を経て北に進めば上杉領の丹波。この辺りは山深く、逃げるには利があり、追うには不利。その丹波も危うくなれば、更に西に逃げれば、後醍醐天皇のいる船上山がある。
つまり、足利家の領地である上、攻めるにせよ逃げるにせよ、絶好のロケーションだったというわけだ。
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