挙兵 西か東か

 13333月、倒幕を決断し鎌倉を発った足利尊氏にとって、あとは挙兵の時と場所を決めるだけだった、と言ってしまえば簡単だが、これがそうも一筋縄ではいかない。

 

まずは、どのくらいの加勢が得られるか、という問題。

鎌倉を発った時の尊氏の軍勢はおそそらく数百。

直義は「東国の武士たちは長年北条氏に対して反感を持っているが、その圧倒的な武力の前に恭順のふりをしていただけ。ひとたび源氏の累葉かつ最も勢力のある足利家が立ち上がれば、東国の源氏の血を引く武士たちは、またそれに限らず長年北条氏に押さえつけられていた武士たちは、必ず呼応して立ち上がる。」と強気の発言を繰り返していたようだが、尊氏は慎重だ。まずは、足利家が守護を務め、足利一族の多い三河の武士たちの加勢がどれだけ得られるかがポイントだと思っている。

尊氏の一行は東海道をゆっくり進み、3月初めに鎌倉を発ったが、三河に着くまでは1カ月弱を要している。この間、尊氏は三河の吉良、斯波、今川、一色、仁木などの足利一門の様子を探り、更に東国、信濃の武士たちの動向を探っていたんじゃないかと思う。そして、三河で足利一門と合流し、その軍勢が、それまでの道中で加わった武士たちも含め数千(5千程度?)に膨れ上がったところで、初めて最終的に挙兵を決断する。



 で次は、どこで挙兵するかだ。西か東か、畿内なのか関東なのか。

畿内であれば、護良親王、千草忠顕は勿論、楠、赤松、名和など既に旗色を明らかにしている勢力や、西国の悪党たち反北条氏の武士たちの軍勢を当てにできる。まずは京の六波羅探題を滅ぼし、後醍醐天皇を京に迎え入れ、京の守りを固め、その後東国の源氏諸流の武士たち、反北条氏の武士たちと叫号し鎌倉を攻めればよい。ただ、河内には千早城攻めの数万の幕府軍がいる。吉野を攻めていた幕府軍もいる。この軍勢に京の守りを固める前に攻め立てられれば、苦戦は必至。更に、東国の武士たちが倒幕の挙兵を躊躇すれば、鎌倉に残っている幕府軍が京に攻め上り、挟み撃ちとなる可能性もある。

このまま三河から引き返し、東国の源氏諸流の武士たちの決起を促し鎌倉を攻めるとすれば、幕府軍の多くが河内、吉野に出払っている現状を考えれば、鎌倉を落とすことは難しくない。鎌倉の北条氏を滅ぼしてしまえば、畿内にいる数万の幕府軍も立ち枯れて散り散りになろう。しかし、鎌倉攻めの最大のリスクは、東国の武士たちの倒幕の挙兵が担保されていないことだ。東国武士たちの挙兵が十分でなければ、数千の足利軍などたちどころに滅ぼされてしまうだろう。

 

結局、尊氏は畿内での挙兵を選択する。

その最大の理由は、東国武士の不確実性だったと思う。尊氏は、利によって立場を変えることを躊躇しない東国武士たちの生き様を、ごく普通に自然なことと捉えている節がある。だから、後年、自分が劣勢の時に裏切った東国武士が、優勢となると同時に再び傘下に入ることを、尊氏は時として直義の反対を押し切ってまでも許したりしているのは、東国武士というか武士とはそういうものだと割り切っているからだと思う。それに、尊氏自身の行動も傍から見れば、そう見える。


そういう訳で、三河で畿内での挙兵を決めた尊氏は、その後は進軍の足を速め、約
2週間程度で京に入るのだが、その直前の鏡宿で後醍醐天皇からの倒幕の綸旨を受け取る。太平記には、京で倒幕を決意し、船上山の後醍醐天皇に書状を送ったと言われているが、綸旨が届く時間から見て、三河で討幕を最終的に決断し、そこから書状を船上山の後醍醐天皇に送り、後醍醐天皇からの倒幕の綸旨は鏡宿で受け取ったと考えるのが自然だ。

因みに、この鏡宿という所は、滋賀県の近江八幡と野洲の中間にあり、その昔、京を離れた若き源義経が元服し、平宗盛が鎌倉から京に護送される途中で斬首され平家が滅亡した地、と言われている所で、京の影響圏をわずかに外れた位置にあって、綸旨を受けるには極めて絶妙な場所だったといえるかもしれない。

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