足利尊氏 1333年春の決断

 1332年、畿内の反幕府活動は一向に収まらず、この収拾を六波羅探題に任せきれなくなった鎌倉幕府が9月に大軍勢を東国から送ることになると、鎌倉の雰囲気は一気に騒然となった。

 

足利尊氏のもとにも畿内・西国の情報が続々と入って来る。特に足利家が守護職であった三河からの情報は、三河が京と鎌倉を結ぶ東西交通の要所であると同時に信濃への物流の拠点でもあったことから、畿内・西国はもちろん、信濃など東国の武士たちの動向などの情報が豊富に集まって来たんじゃないかと思う。

そうした情報が、尊氏の中で北条方に留まる危うさを次第に増幅させていく。いずれは幕府軍の一翼として西国に赴かなくてはならないので、尊氏自身、幕府方に残るか後醍醐天皇方に走るか、それを決断しなくてはならない時期に来ていたことははっきり自覚している。しかし、事が事だけに尊氏はかなり慎重に事を進めようとしていたような気がする。だから傍目から見ると、尊氏は何も決断せずグダグダ日々を送っているように見える。


しかし、そのグダグダを許さない人間が尊氏の周りには結構いる、というか、そういう尊氏だからこそ、周囲にはうるさい人間が集まる。

最右翼は弟の直義だ。直義は足利氏を北条氏にとって代わって幕府の頂点に押し上げ、名実ともに武家の頭領にしたいという強い願望を持っていたから、現在の畿内の情勢に乗っかって北条氏を倒すべきだと、身内の遠慮の無さで迫って来る。

また、以前からの相談相手である上杉憲房も倒幕を主張する。憲房は尊氏の母、清子の兄であり、尊氏にとっては叔父にあたる。そもそも上杉家は京の貴族の出身で、京の情勢にも詳しく、朝廷にシンパシーも持っていたから、北条の鎌倉幕府の下にとどまるモチベーションは薄い。それに、この事態を放っておくと、丹波の領地が後醍醐天皇方の武士たちに侵されかねない、という心配もあった。

家宰の高師直は、その権力願望を隠そうともせず「鎌倉で挙兵するべき。」なんて言ってくる。しかし、これは軍略的に見れば至極真っ当な意見ではある。

つまり、尊氏の側近に限って言えば、大方が倒幕派として「殿ご決断を!」みたいな感じで迫っていたことになる。

こうして周囲からやんややんやと言われる中で1333年に入り、護良親王が吉野で挙兵し、楠正成が赤坂城、千早城に依って幕府軍を悩ませ、さらに後醍醐天皇が隠岐の島から脱出し、船上山から全国に倒幕の綸旨をバンバン送るようになると、さすがに尊氏も、西国遠征の命が下るのも間近と見て、決断を余儀なくされたんだと思う。この時、その討幕の決断を知ったのは、直義、上杉憲房、高師直、師泰くらいか。

 

13333月、ついに幕府から船上山の後醍醐天皇討伐の命が下る。

この時に、幕府から、幕府を裏切らないという主旨の起請文の提出と、妻の登子、嫡男の千寿丸を初めとする子息たちの鎌倉留め置きを迫られる。この幕府の措置については、起請文はともかく、妻と子息が人質に取られるとうことには、尊氏は悩み落ち込むが、そこを直義が、「大儀の前の小事。起請文なんて破ったって正義を行えば神仏は許してくれるだろうし、登子は時の執権赤松守時の妹だから、仮に倒幕決起後鎌倉を逃げそこなったとしても、命までは取られない。」なんて言って尊氏の背中を押した・・・てな事が太平記には書いてあるわけだが、その後の展開を見ると、決起後の登子、子息たちの鎌倉脱出計画は、この時点でかなり綿密に練られていたんじゃないかと思う。でなければ、後に嫡男の千寿丸が鎌倉を抜け出して新田倒幕軍にいとも簡単に合流するなんてことは無い。

そういう訳で、13333月、尊氏は討幕の決意を胸に鎌倉を出立することになる。

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