足利尊氏の1332年

 1332年という年は、後醍醐天皇が1331年の元弘の変と13335月の鎌倉幕府滅亡の間に挟まれた時期で、反鎌倉幕府というマグマが噴火寸前にまで膨張する時期である。


1332
年から13334月の足利尊氏旗揚げまでの出来事を追っていくと

1332年】

2月 後醍醐天皇、隠岐の島配流

4月 楠正成、上赤坂城を奪取

4月 楠正成、住吉、天王地区に進出

5月 楠軍と六波羅探題軍が渡辺橋で激突、六波羅軍は敗退する

6月 足利尊氏、従五位上を賜る

6月 護良親王、十津川に入る

7月 楠軍と六波羅探題軍が対峙するも決着つかず、楠軍は8月頃までこの地域を占拠

9月 北条高塒が東国から追討軍を派遣

11月 護良親王、吉野城に入り東国も含む全国に討幕の令旨を送る

1333年】

2月 吉野城陥落 護良親王は吉野から逃亡

2月 千早城の戦い

3月 後醍醐天皇、隠岐の島を脱出

3月 赤松勢の京侵攻

4月 後醍醐天皇、船上山に入る

という事になる。



天下騒然の体を呈しているわけで、太平記では北条高時はその時期でも田楽や闘犬に現を抜かしていたと書いているが、きっとそんなことは無く、幕府は寄合衆を中心に関西の反幕府勢力対応に追われていただろうし、西国のみならず東国の武士たちも、それなりに情報アンテナも張り巡らせて天下の情勢に敏感に反応していた筈だ。特に、東国の武士たちにとって、鎌倉に漂う緊迫感は、極めて現実味を帯びた社会変動の予兆という形で認識されていたんじゃないかと思う。

尊氏はそんな中で、13319月に笠置山と赤坂砦が陥落すると、京に殆ど留まることなく11月には鎌倉に戻ったという。13319月の父貞氏の死去後、家督を引き継ぎ作業も儘ならぬまま笠置の後醍醐天皇軍の討伐に向かった為に、鎌倉にはやるべきことが山積していたからだ。

鎌倉に戻ると、尊氏は足利家の新当主として様々な手続きをこなしていかなければならず、その過程で否応なく足利家の当主としての自覚が形成されていったと思う。当主としての自覚とは、即ち家を守り一族郎党たちの生活を守るという自覚に他ならない。

つまり、前年の笠置山と赤坂砦の攻防戦で感じた捉えどころの無い恐怖感、即ち北条氏と一蓮托生と東国の武士たちから思われている可能性の高い足利家の存立の危うさが、この年の関西の衰えぬ反幕府闘争という情勢と鎌倉の異様に緊迫した空気から、いよいよ現実のものとして目の前に現れてきたと言うべきだろうか。6月に朝廷から従五位上という官位を賜るのだが、これは当然鎌倉幕府からの推挙があったからで、こんな事は尊氏も百も承知だから、単純に喜んでいる場合ではなく、逆に幕府からの裏切るなよ圧力を強烈に感じさせられるという事になり、恐怖感はさらに増幅されるのである。

そういう意味で、1332年という年は、足利尊氏にとっては極めて精神的な負荷の大きい年であり、悩み多き年であり、生涯を決定づけるヒリヒリとした年となったと言える。

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