笠置寺磨崖弥勒仏のお姿が隠れてしまっていること

笠置山は京都府南部、奈良県との県境に位置している。

笠置の地名は、天智天皇の子大友皇子が、断崖で危うく命を落としそうになったところを笠置山の神に助けられたそのお礼に弥勒磨崖仏を彫るのだが、その際、大友皇子が目印に笠を置いたという伝承による。その弥勒磨崖仏を本尊とするのが笠置寺で、白鳳時代の創建と伝えられ、平安時代以降、弥勒仏信仰の高まりとともに栄えた。

しかし、13319月に京を抜け出した後醍醐天皇が3千ほどの軍勢と立て籠もり、これを取り囲む7万余の幕府軍との間に激しい攻防戦を行ったために寺は焼け落ち、本尊である弥勒磨崖仏も岩の表面が剥離するなど大きな被害を受けたと言われる。


参道入り口の料理旅館で出される雉料理を目当てに、何度か笠置寺には行った。

寺は関西本線の笠間駅から歩けば小一時間、車なら10分程度の笠置山の頂にあるが、そこまでは地元の人間ですら運転を嫌がるほどの急坂だ。確かにここを攻めるのは容易ではない。上まで歩く人の気も知れない。

参道にせり出した巨岩をくぐるようにして本堂に近づくと、左側の巨大な岩肌に磨崖弥勒仏が彫られているのだが、輪郭は分かるが、お顔、お姿共にはっきりしない。こんな巨大な磨崖仏が剥落するほどの火災って、どんだけだったんだろう。木に覆われた山全体が燃えたという事なんだろうか。

お堂の裏に回ると巨岩がにょきにょきとせり出した岩山がある。巨石は古くから信仰の対象なので、この地が深く信仰に関わったことが、その巨石群からひしひしと伝わって来る。信仰の場は、歴史上、度々戦いの場ともなる。吉野、比叡、石清水・・・


この笠置山の戦いは足利義満の南北朝統合に至るまでの50年余続く戦乱の世の最初の大規模な合戦なのだが、のっけから火をつけられてしまっては、さしもの弥勒菩薩さんも人間どもを諫めるどころか、やってられないわと、巨岩の中にすいっと姿を隠してしまったのかもしれない。仏も顔をしかめる動乱の世の始まりだ。仏もお姿を現してみたり消してみたりで忙しい。人間と付き合うのは面倒だなぁ、と思われているに違いない。

 

一方、遠巻きに笠置山を囲んでいた足利尊氏には、燃え盛る笠置山がどう映ったのだろうか。そこに来るべき波乱の人生を予感し・・・なんてことは無いな。尊氏は、まだそんなことまで予感するほど決意を固めていない。幕府方の勝利は極めて順当だが、やっと終わったか、くらいの感想だろう。あ、山が燃えてる。あの山火事でこんがり焼けた雉の肉は旨かろう・・・くらいの事は考えたかもしれないけど。

その雉料理は、今でも笠置山の名物だ。



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