元弘の変が醸し出した不気味な空気
1324年の正中の変以降、自らの血筋を皇統として残すことを含め天皇による親政を諦めない後醍醐天皇は、引き続き側近の者たちに、特に西国での反北条氏、反幕府の動きを探らせており、河内の楠氏や播磨の赤松氏のような、鎌倉幕府の統治が彼らの活動の足枷になっている西国の悪党達や親後醍醐派の武家達とも通じていた。
関西の悪人たちの幕府支配から逸脱しようとするエネルギー。関西、九州など西国の武家達の反北条感情。それは、決して後醍醐天皇が目指す親政とは一致するものでは無かったかもしれないが、倒幕、北条氏討伐という一点において目的意識は共有できる、と後醍醐のリアリティ感覚が訴え、正中の変の時にはまだ決めかねていた倒幕への決心がかなりの確度で醸成されていたと思われる。
しかし、後醍醐天皇の倒幕計画はまたも事前に漏れた。計画を六波羅探題に漏らしたのは後醍醐天皇の側近吉田定房。つまり、討幕のコンセンサスは、この段階ではまだ後醍醐側近の間でも得られてなかったという事だ。
討幕計画が六波羅探題に漏れたため後醍醐天皇は都を逃げ出すこととなり、南都の興福寺に頼ってはみたものの、あっさり断られ、笠置山に立て籠もることを余儀なくされるという結果になる。1331年の元弘の変である。
後醍醐天皇の京都脱出は1331年8月だが、9月には幕府の勅命を受けた大仏貞直、金沢貞冬、足利尊氏らに率いられた7万余の軍勢が笠置山を取り囲む。天皇方は峻険な山の地形を最大限に活かし善戦するも、所詮は多勢に無勢、1ヶ月後には陥落し、後醍醐天皇は幕府方に捕縛され隠岐の島に流されることになる。
同時期に楠正成が河内の赤坂砦で蜂起していたので、笠置山を攻め落とした幕府軍は、赤坂砦攻略に向かうが、楠軍が展開する山岳地帯のゲリラ戦の前に攻略は難航する。力攻めに攻めても埒が明かない状況で幕府軍は包囲戦に持ち込んだが、関東とは全く戦いの前に戸惑い、幕府軍の将兵の間では厭戦気分が横溢していたのではないかと思う。足利尊氏もこの攻略戦に参加して、否応なく幕府軍の士気の低さに気付かざるを得ない。赤坂砦を支えたのは、物語で言うような正成の奇策ではなく、幕府軍の厭戦気分だったかもしれない。
尊氏という人間は時勢の空気に敏感に反応する肌感覚を持った男なので、この赤坂城包囲戦に参加している関東の非北条氏系御家人達の不満、更に西国の後醍醐親派の武士たちの意外なほど強固な反幕府感情といったものを感じとっていた筈だ。しかし、ここで感じ取った感覚がそのまま倒幕に直接的に結びついた訳ではないが、何やら不気味で落ち着かない気分にはなっていたと思う。それは、源氏でいながら、血縁関係を通じて最も北条氏に近い位置にいる足利氏の微妙な立ち位置が起因している。即ち、下手をすれば関東の御家人たちの北条氏への不満が、そのまま足利氏にも向けられるかもしれない、という恐怖感だったかもしれない。
この元弘の変の時期、後醍醐天皇にとっても、足利尊氏にとっても、世の中の倒幕の気運はまだ醸成されていなかった、と言えるが、一方、後醍醐天皇にとっては明確に、足利尊氏にとっては漠然と、倒幕へのモチベーションは心の中で育っていたと言える。
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