尊氏の結婚と一夜の過ち
1324年の正中の変から足利尊氏自身が出陣することになる1331年の元弘の変までの7年間、尊氏の身の上に起こったトピックスといえば、結婚くらいだろうか。
父の足利貞氏は依然として家督を尊氏に譲らないのだが、北条家との結びつきを維持する事を目的として、赤橋流北条家の守時の妹の登子を尊氏の嫁として迎え入れる。赤橋家は北条一族の中でも家格が高い家柄で、後日、守時は鎌倉幕府最後の執権となる。
1330年7月には後の2代将軍足利義詮(千寿王)が誕生している。
尊氏の身の上で起こった大きな事はこの位だが、他にもう一つ、越前局問題がある。これは太平記が書く「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給タリシ越前ノ局ト申ス女房ノ腹ニ出来タリシ人トテ」という、後の足利直冬の誕生である。ところが、尊氏は終生、直冬を我が子として受け入れることは無かった。
この直冬は、後に子が無かった弟直義の養子になる。直義に実子ができるのは、1347年、直義40歳の頃である。
尊氏が直冬を我が子として受け入れなかった理由は謎だ。
この時すでに、加古基氏の娘との間に竹若丸が誕生していて、太平記では尊氏の嫡男の扱いになっている。加古基氏は足利家三代泰氏の子で、竹若丸の素性がしっかりしているのに対し、直冬の母の越前の局の素性は知れない。もしかしたら遊女だった可能性もある。
遊女、白拍子、傀儡といった人々は、鎌倉時代初頭までは天皇や有力貴族に直接仕える、一般庶民とは差別化された存在で、朝廷の神事に招かれ芸を披露し、また天皇個人の身の回りの雑用をするなど、ある意味、天皇の供御人同様特権的な人々だったので、遊女が母であることは決して恥ずべきことではなく、公家でも母は遊女であるという事を堂々と認めている。源頼朝の弟範頼の母が浜松辺りの遊女であったことも周知の事実だった。
しかし、承久の乱以降、鎌倉時代を通じ、天皇や公家たちの財力が衰え、自ら遊女、白拍子、傀儡を庇護する余裕は無くなると、遊女、白拍子、傀儡たちは自活せざるを得なくなり、つまり武士や町人などに芸を売って生活せざるを得なくなる。そのことが、それまでとは逆説的な差別化を生む。穢れた存在になるわけだ。
尊氏の時代、既に遊女は賤民という見方が現れていただろうから、それが直冬を受け入れなかった理由かもしれない。源氏の頭領の息子としては相応しくないと。しかし、尊氏の性格や、直義が直冬を養子にしていることを考えると、あまり説得力のある見方ではないような気がする。
そこで考えられるのは、正妻の登子が尊氏に迫って直冬を子として受け入れさせなかった、という事である。
登子は北条氏、しかもその中でも家格の高い赤橋家の人間だから、家柄というものに強い拘りを持っていたとしても不思議はない。竹若丸の母は足利家本流の流れをくむ家柄なので、登子としても受け入れられようが、氏素性の知れぬ女の、しかも一夜限りの関係で出来た子直冬は感情的に受け入れようがない、という事だ。
嫁とはいえ登子は北条氏の娘である。それに登子は、性格の強い人間だった、という話も伝わっている。尊氏もおいそれと登子の意見は無視できなかったという事だろうか。
真相は分からないが、しかし、この一夜の契りで生まれてきた直冬を我が子として受け入れなかった事に、尊氏は後世、直冬の反旗という形で悩ませられ続ける。一夜の過ちは、尊氏にとって高くついたことは間違いない。
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