酒と女と陰謀と
後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕運動の第一弾は1324年の正中の変という形で現れる。
これは、日野資朝、日野俊基といった親後醍醐天皇派の公家や、多治見国長、土岐頼兼など反北条氏の武家、僧侶たちの倒幕計画が六波羅探題方に露見し、六波羅探題による首謀者の殺害、捕縛という結果に終わった事件だ。当の後醍醐天皇自身は幕府の追及に対して知らぬ存ぜぬで押し通し、からくも処罰を逃れるている。
計画自体は、北野天満宮の祭りのどさくさに紛れて六波羅探題を襲い、南都の衆徒なんかを動員して京の守りを固め、その間に西国の武家たちを糾合して鎌倉の幕府勢と対峙する、という雑なもので、どこまで実効性をもっていたのかはかなり疑問だ。
この討幕の謀議に用いられたのが無礼講という酒宴だ。この当時は既に、自らの利益のために要人をもてなす酒宴を開くことは珍しい事ではなかったので、後醍醐天皇腹心である日野資朝が、多治見国長や土岐頼兼といった武家や僧侶から、公家と武家という身分の壁を取り払い本音を聞き出すためには、衣冠束帯など形式上の礼を無視した形の無礼講という酒宴は特に奇異なものとは思えない。酒と女と陰謀と、という訳だ。
しかし、
「男は烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は衣を着せずして百衣なり。年十七、八なる女のみめ貌好く、膚殊に清やかなるを二十余人にすずしの単ばかりを着せて、酌を取らせたれば・・・」(太平記)
という具合では、計画が漏れてしまうのも当然と言えば当然だ。度々こんな事をやっていてはさすがに六波羅探題方に怪しまれると、僧を招いて文学の講義の体を取り繕ったりしたようだが、そんな事では六波羅探題の目はごまかせない。
太平記では、この一味の土岐頼員が無礼講の事を不用意に妻に漏らしてしまい、妻が父である斎藤利行に告げ口し、利行が六波羅探題に駆け込むという事で謀反は露見するという事になっているが、密告者が誰であったにせよ、実態もこれに近かったような気がする。
勉強会と称して料亭に集い、酒に酔った勢いで天下国家を語り、謀議を凝らし、二次会のクラブ辺りでホステス相手に大言壮語して、それが噂で流れ、最終的に党本部にばれて叱責されるような政治家は、今でもいそうだ。
だが、この正中の変はいくつかの観点から観ると、ちょっと興味深い。
1.後醍醐天皇のリアリティ感覚
2.関西の悪党たちの動向
3.公家と武家の間の距離感
4.武家たちの反北条氏の本気度
基本的には、鎌倉幕府倒幕という事に対する後醍醐天皇のリアリティ感覚が、どこまで社会のリアリティ感覚と一致しているか、という事がポイントだと思うし、後醍醐天皇自身もこれを確認したかったんじゃないかと思う。
だから、腹心の一人である日野俊基に畿内、西国を遍歴させ、反幕府と思しき楠正成に代表される悪党たちの動向を探らせ、鎌倉幕府内の反北条氏と思しき武家の本音をひろって、その時点での公家と武家の倒幕への意識差を認識し、倒幕の実現度合いを確認したかったんじゃないかと思う。
そうした過程で、詳細は後で触れようと思うが、後醍醐天皇自身は、武家との意識差、討幕を実現させる世の中の気分の醸成が不十分であることを薄々感じ取っていたような気がする。だから、倒幕を計画させるも、実行の意思は低かったと思うし、自分が表に出ることも無かったんだと思う。
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