鎌倉の尊氏

 そもそも尊氏は足利家の当主となる筈ではなかった。父貞氏には北条(金沢)顕時の娘との間に生まれた高義という嫡男がいたのだが21歳で突然この世を去ってしまう。1317年のことである。それで、急遽家を継ぐことになり、もしそれまで丹波上杉荘にいたのだとしたら、渋々鎌倉に移り、仕方なく元服して、当時の執権北条高時から偏諱を受けて足利高氏と名乗ることになる。(尊氏と名乗るのは、後に北条氏の六波羅探題を滅ぼし、その功績で後醍醐天皇(尊治)から偏倚を受けてから。)この時点で従五位下を授かるので、貴族の仲間入りをしたことになる。尊氏としては、これは、もしかしたら嬉しかったかもしれないが。


本来なら、側室の子、庶子として近習の者達と酒を飲み、和歌を詠み、田楽を楽しみ、気儘にこの世を楽む筈だったのが、当てが外れてしまったのだ。その当時のことだから、いつ自分が足利家を継ぐ立場になるか分からないという漠然とした覚悟はあったと思うが、できる事ならそんなことは考えずに気儘に人生過ごしたい、と思っていたのではないかと思う。

鎌倉は関東随一の都会であったが、京に比べればあらゆる点で田舎であったに違いない。しかも、どうも父貞氏との折り合いが良くない。貞氏から見れば尊氏は、側室の子の割には妙に都会ずれした文系草食男子っぽくて気に食わない。逆に尊氏から見たら貞氏は和歌も詠めず、田楽も楽しめない田舎者丸出しの無教養親父に見えたのかもしれない。こんな感じだから、貞氏が尊氏に家督を譲るのはずっと後になってからのことだ。

だから、何となく鬱屈した日々を送っている。弟の直義は、尊氏もこの弟のことは大好きで大事にしていたが、妙に生真面目なところがあって、長く一緒にいると息が詰まる。遊び仲間という訳にはいかない。



同じ時期に佐々木道誉(1296or13061373)が鎌倉にいた。京に近い近江で育った道誉と尊氏は文化的背景が近いので、気が合ったかもしれない。道誉は後に婆佐羅として名を馳せるほどの遊び人。道誉に悪い遊びを教わるにつけ、遊女屋通いも始まる。当時は、現在の大磯の山王町あたりが鎌倉唯一の花柳界として賑わっていて、店が軒を並べ、遊女も多く、鎌倉や腰越から海岸伝いに遊びに来たようだ。

こういう場所には、全国から鎌倉に集まってきた武士たちも通っていただろうから、遊びは勿論だが、様々な諸国の情報が飛び交っていた筈だ。京の状況、荘園の荒廃、悪党の暗躍等々。場所柄、無礼講に近い状態で遊女を侍らせながら酒を飲むこともあったろうから、鎌倉から少し離れていることもあって、北条氏の専横に対する不満みたいな話題も当然飛び交っていたと思う。

尊氏は、遊女屋に通いながらも、こうした様々な、玉石混淆ともいえる情報の中から、その時代の潮流を敏感に嗅ぎ取っていただろうし、それが後の討幕への決断のベースになっていたような気がする。

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