足利尊氏生誕の地

 京都から山陰本線に乗り、綾部で舞鶴線に乗り換え2駅行くと、梅迫に着く。無人駅だ。駅前を通る京都府道には民家が立ち並んでいるが、商店は疎らにしかない。この道を南の方に10分ほど歩くと雲源寺が右手に見える。由来は定かではないが細川ガラシャ夫人の手洗い鉢があるのだが、そこは帰りに寄るとして、更に10分ほど歩くと安国寺に着く。





足利尊氏生誕の地には鎌倉説、下野足利荘説、丹波上杉荘説の三説あるが、この安国寺が上杉荘説の生誕地だ。なるほど、寺の山門の前には「足利尊氏公誕生之地」と彫られた結構大きい石碑があり、その傍には「足利尊氏公産湯之井戸」まである。

鎌倉には足利邸跡はあっても足利尊氏生誕地などという石碑は無く、下野足利荘、今の足利市、には尊氏の銅像は建っていても生誕の地と称するモニュメントは無い。石碑も産湯の井戸もあるのだから、ここを足利尊氏生誕の地の本命にしてあげても良いじゃないかと思ったりするが、しかし、世の歴史学者の間では鎌倉説が最有力なんだそうだ。

有力御家人であった足利氏は鶴岡八幡宮の前を東西にのびる当時のメインストリート鎌倉六浦道に屋敷を構えていて、父貞氏も基本的にここに居住していた筈なので、鎌倉説は何となく説得力があるのは確かだ。

丹波上杉荘説は、尊氏以降の足利家の宿老とも言える上杉氏の所領であり、尊氏の母上杉清子の出身地でもあるのでもう少し頑張って欲しいが、無理があるんだそうだ。鎌倉にいる父貞氏が、丹波にいる側室上杉清子のもとに通ったという事も、清子が出産のためにわざわざ鎌倉から丹波まで帰ったという事も考え難いというのだ。まあ、そう言われてみればね。





 梅迫の街は、今でこそ歩いてみるとかなり地味だが、尊氏の時代には、古代から海上交通の要衝だった舞鶴と京を結ぶ交易路に面していて、京の情報、文化が入ってきやすい土地だった筈だ。因みに京へは約90キロの距離で、3日もあれば行くことができる近さだ。

後に尊氏は京に幕府を開くことになる。武家にとっては聖地ともいえる鎌倉ではなくて京だったのは、吉野の南朝を始めとして、牽制しなくてはいけない勢力が西国に固まっていたことが主な理由だろうが、鎌倉への執着が弟の直義に比べて薄かったこともあるような気がする。尊氏の中には、元服まで過ごした丹波で得た京文化の記憶が体に染みついていて、その中で京に対する親近感が養われていたんじゃなかろうか。尊氏は和歌が上手く、田楽などの芸能を好む。それを楽しむなら鎌倉より京の方が良いし、実際、楽しんでる。

坂東武者が持っている粗野な感じ、暴力的な感じが尊氏には薄い。むしろ公家的な大らかさというか、甘さというか、そんな感じさえ受ける。そう考えると、尊氏は丹波上杉荘で生まれてくれた方が、感覚的にはしっくり来る。

 

ところで、尊氏は、最近評価が変わってきているが、一時代前は天皇陛下に逆らった悪い奴という事になっていた。町の人達も土地の英雄の評価を気にしてるんだろうか、この町にはそんな悪い奴はいないよと、一所懸命アピールしている。


#足利尊氏
#安国寺
#丹波


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