観応の擾乱 不幸な兄弟喧嘩 太平記其四六

 1350年から1352年にかけて争われた観応の擾乱は、単純にその形だけを見れば、足利尊氏と足利直義の壮大な兄弟喧嘩だが、その実態は当時の武士たちの自己防衛本能が複雑に絡みあい、濁流となって建武新政から室町時代へと移り変わる時代の落差を滑り落ちていく歴史の必然のドラマだと言える。


 

このドラマの前段として尊氏が恩賞の行使を主体とした主従制的支配権を握り、直義が所領安堵や所務沙汰を主体とする統治権的支配権を担当するという二頭政治があると言われているが、実態は、13398月に後醍醐天皇が崩御し、気が抜けてしまった尊氏が急速に政治に興味を失い、実質的な統治権を直義に丸投げしてしまったということではないかと思う。やる気を失った尊氏に代わって主従的支配権の実務を担ったのが執事である高師直だったので、自然発生的に直義と高師直の間に、どちらが室町将軍たる尊氏の意思を体現しているかという権力闘争が生まれた。もし、尊氏が政治に主体的に関与していたら、直義は尊氏に従属する形で統治全般を実務的に行い、高師直は尊氏というカリスマの補佐をするに留まり、直義と師直の権力闘争は起きようがなかったのではないかと思う。

そして、13481月の四条畷戦いで南朝楠正行を打ち負かし、勢いに乗じ南朝の本拠である吉野にまで攻め寄せたことにより高師直自身が軍事的なカリスマ性を帯びてしまったことで、実務官僚としての直義との権力闘争は益々鮮明になっていく。

この権力闘争の裏にいたのが、

  足利直義支持勢力である寺社、公家、地方の有力御家人、足利一門、幕府奉公人など鎌倉幕府的秩序の維持を望む既得権保持者である保守層と

  高師直支持勢力である畿内の新興武士層、地頭・御家人の庶子、家格の低い足利一門など伝統的権威の軽視と武士の権益の拡大を目論む新興勢力

と言われているが、観応の擾乱の経過を見ていると、直義支持勢力と師直支持勢力、加えて尊氏支持勢力が明確に分かれていたわけではなく、大半の武家、寺社、貴族はその時々で勢いのある方、自分たちに利益のある方を支持していたに過ぎない。つまり、武家たちにとっての領地問題と恩賞の充行問題が、直義と師直の権力闘争という形で表現されたということだ。それに師直を執事とし、師直の支持基盤を共有していた尊氏の存在が被さることによって、いつの間にか尊氏と直義の対立という事に変質していったのではないかと思う。しかし、利害のもつれ合うこの多様な集団が、その時々で旗幟を変えることで、尊氏と直義の対立を、二人の思惑とは裏腹に、より先鋭化させ、観応の擾乱というものを複雑怪奇なものにしていたことは間違いない。

 

更に、足利直冬問題がこれに輪をかける。直冬は尊氏の実子であるが、尊氏は生涯、直冬を実子と認めず、感情的に嫌悪していた感がある。直冬の母は「一夜のあやまち其四」でも書いたが、越前の局という正体の分からない女性で、吉川英治が小説で藤夜叉として登場させている旅芸人や白拍子といった身分の低い女性だった可能性が高い。尊氏としては、まさに魔が差したというか、一夜のあやまちで出来た子だったので、出家させ世を捨てさせるべく動いた筈が、直義が養子として直冬を迎え入れ、直冬自身も有能な武将として育ったことで、直義が直冬の栄達に尊氏の意に反してまで熱心になっており、思いもかけぬ事態、つまり直冬問題における直義との感情的な対立になったという事だろう。

 

135010月の足利直義の京からの逃走に始まり、13522月の直義死去で終わる観応の擾乱は、足利兄弟にとっては、武家たちの自己防衛本能、欲望が絡み合い、激しくぶつかり合う状況の中で、あれよあれよという間にその濁流に飲み込まれ、気づいてみたら、兄弟間の厳しい対立に発展していた、という何とも歯切れの悪い話だったんじゃないかと思う。

尊氏は、ある時は直義の敵対者と振舞いながら、ある時は兄としての情愛に訴えるような行動をし、直義も、最後まで兄尊氏には冷徹になり切れず、歯切れの悪い行動を繰り返したりしている。尊氏は、その後1358年に亡くなるまで、直冬や旧直義勢力との戦に明け暮れ、平穏な日々を送ったという事はなかった。

足利兄弟双方にとって、観応の擾乱の結果は決して幸せなものとは言えない。

♯観応の擾乱

♯足利尊氏

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