観応の擾乱 年表 太平記其四五

 

13398月に後醍醐天皇が崩御してから、暫くは足利尊氏にとって比較的平穏な日々が続くが、1347年の南朝方の盛り返しによって、その平穏は打ち破られる。

これに続いて、観応の擾乱と言われる足利政権内での内部抗争、それも日本全土にわたる大規模な内乱規模の抗争が始まる。これは、当初、足利直義と高師直の間で始まった権力抗争が、足利尊氏を巻き込み、最終的に尊氏と直義の抗争に発展するのだが、ほぼ全ての武家達を巻き込み、巻き込まれた武家達も尊氏と直義の間で右往左往するという、何と複雑な様相を呈する。

取りあえず、その理解のために、簡単な年表と、その時々で師直・尊氏派と直義派に属していたと思われる武将の名前を列記したものを掲げてみます。


高師直(足利尊氏)派

足利直義派

1347

7

足利直義嫡子如意丸誕生

8

細川顕氏・山名時氏、南朝軍に敗北

細川顕氏(侍所頭人)

山名時氏

1348

1

高師直、師奏 楠正行を四条畷の戦いで破る

高師直 高師泰

1

高師直 吉野賀名生攻め

5

足利直冬 紀伊遠征

1349

6

足利直義 三条殿周辺住居の差し押さえ

高師直との戦準備か?

足利尊氏、高師直の執事罷免

上杉重能

畠山尚宗

僧妙吉

8

足利尊氏篠村八幡に参詣

足利直義 尊氏邸に避難

高師直 尊氏邸包囲 「御所巻」

高師泰

上杉重能

上杉重能、畠山尚宗:越後へ流罪

高一族

石塔頼房

足利直義:政務引退

赤松円心

畠山尚宗

赤松則祐

石橋和義(中間派)

二木頼章

南宗継

細川清氏

大高重成

吉良満義

島津光久

山名時氏

斎藤利泰

今川範国

饗庭命鶴丸

千葉貞胤

須賀清秀

宇都宮貞宗

土岐頼康

佐々木道誉

小笠原政長

武田信武

足利直義 政務復帰するも権力は限定

高師直 執事に復帰、権力の拡大

9

足利直冬 九州に転進

10

上杉重能、畠山尚宗 殺害される

足利義詮 三条殿に就任→直義の権限吸収

12

足利直冬の勢力拡大

足利尊氏 直冬追討命令

1350

10

足利尊氏 直冬討伐のため九州遠征

足利直義 今日を脱出、大和に逃走

上杉憲顕

【観応の擾乱】

桃井直常

細川顕氏 直義派へ

畠山国清 直義派へ

足利直義 南朝に降伏

12

南朝 直義の降伏を受諾

足利尊氏 京へ反転

1351

1

足利直義 岩清水八幡に布陣

佐々木六角氏頼

桃井直常

(これを機に直義方に走る武士が増える)

細川顕氏

畠山国清

石塔頼房

斯波高経

二階堂時綱

小笠原政長

今川範国 直義派へ

上杉朝定

杉朝房

足利義詮 京都脱出

山名時氏 直義派へ

足利尊氏 書写山布陣

2

打出浜の戦い

高師直、師泰の出家を条件に講和

上杉修理亮の軍勢 高一族を斬殺

3

政務は足利義詮、直義が補佐という体制の構築

実態は直義が政務を行う体制

足利直冬 九州探題

一色範氏

如意丸死去

7

足利義詮 赤松則裕討伐のため播磨へ出兵

(赤松則裕は南朝興良親王を担いで反逆)

足利尊氏 佐々木道誉討伐のため近江へ出兵

足利直義 政務返上 北陸へ脱出

佐々木道誉

斯波高経

足利義詮

桃井直常

土岐頼康

上杉朝定

細川頼春

山名時氏

二木義長

吉良満義

二木義氏

高師秋

赤松貞範

赤松光範

石塔頼房

8

足利直義 金ヶ崎城に入城

畠山国清 尊氏に帰順

細川顕氏 尊氏に帰順

足利尊氏 南朝に降伏 (10 受諾)

9

夢窓疎石 入寂

赤松則裕 尊氏の南朝との同盟を仲介

佐々木道誉 直義方・南朝方武士の懐柔・引抜

11

【正平の一統】

足利直義 鎌倉入り

足利尊氏  薩埵峠に布陣

1352

1

足利尊氏 鎌倉攻略

佐々木道誉

今川範国

畠山国清

武田信武

二階堂行珍

千葉氏胤

小笠原長政

吉良満貞

上杉憲顕

2

直義 死去

3

武蔵野合戦

宗良親王

新田義宗

新田義興

北条時行

 

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