婆佐羅の風 太平記其四四

 「院と言うか。犬と言うか。犬なら射ておけ。」そう罵って、光厳上皇の牛車を蹴倒すという狼藉に出た土岐頼遠。

門跡寺院である妙法院の紅葉の枝を折ったのを寺門の侍、法師に咎められ、その腹いせに焼き討ちをかけた佐々木道誉。

婆佐羅。天皇や公家と言った権威を軽んじ反発し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識。旧来社会の枠組みが外された時代での自己存在の主張というべきか。

 


この時代、身分制度である御家人制度が形骸化し、それに伴い地頭制度も消滅し、結果として土地制度である荘園制度が事実上崩壊している。という事は、所領の安堵という面では、荘園の本家職である天皇家や摂関家の権威は顧みる必要が無くなったということであり、むしろ顧みるは現在のボス、つまり武家の棟梁である将軍と言う事になる。「そもそも院だにも馬より下りんずるには、将軍に参り会うては土を這うべきか。」という事である。

しかし、その棟梁たる足利将軍は、その時点での最高権力者であるが、絶対的な権威者ではない。であれば、最終的に最も頼るべきは将軍ではなく自分自身の力量という事なのであって、そこまでの明確な自己意識は無いにせよ、突然意識できた自己の肥大化が、自分の存在を他者と差別化するという行為に出たという事ではないだろうか。そこを端的に表現できるのは、華美な服装であり、豪奢な催しであり、傍若無人な行動という事になる。

 

こういう事は、歴史を通して社会の変革期には大なり小なり起こっている。これに対して、その時の為政者は必ずと言っていいほど制限を加えようとするわけで、これも社会の風紀の乱れが政治の乱れに通じることを恐れる為政者側としては当然の反応だ。

この時も、足利政権は、その建武式目で、「近日婆佐羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍・精好銀剣・風流服飾、目を驚かさざるはなし。・・・富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥ず。俗の凋弊これより甚だしきはなし。もつとも厳制あるべきか。」と婆佐羅の風を戒めている。

もっとも、婆佐羅規制の実力行使、厳罰に及んだ例は、上記の土岐、佐々木の様に極端な場合は別として、殆ど無いように思える。土岐・佐々木の様な極端なケースは、そうそう長続きしないだろうし、ある程度の婆佐羅は時の流れとともに常態化してしまうので、いつの間にか婆佐羅という意識自体が無くなり、社会の中に溶け込んでいってしまう。婆佐羅は風の様に社会の空気に紛れつつ、社会の空気を撹拌する。

しかし、自分が頼るべきは自分自身であり、その自分は他者とは差別化されているので、自分の行動はまさに自己責任によって起こされる、というような意識は確実に醸成されて、特に武家の中では定着していったような気がする。婆佐羅の風は、緩やかに、しかし絶えることなく吹き続けるのである。であるからこそ、室町時代という時代は、権力構造が頻繁に入れ替わる流動的な時代になっていくのだ、と言えるかもしれない。

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