憎めども惹かれ 尊氏と後醍醐 太平記其四三

 13385月に北畠顕家が、同年7月に新田義貞が討ち死にすると、南朝方の組織的な抵抗は一時影を潜める。同年8月には足利尊氏が征夷大将軍となる。

翌年13398月に後醍醐天皇が吉野で崩御する。これを知った尊氏は深く悲しみ、等持院での仏事に当たっては、満堂の参列者に対し「今日尊氏あるは一に先帝後醍醐のおかげである。」とまで言い切ったという。


これは、
1335年に始まり後醍醐の崩御に至る今日まで続いている後醍醐新政権と尊氏の武力対立があったとしても尊氏自身は後醍醐天皇個人に対する敵意は持っていなかった、という事を天下に喧伝した政治的メッセージだとも取れる。

また、後醍醐の菩提を弔う目的で建立した天龍寺は、宗旨は真言でもなく天台でもなく、武家の信仰が厚い禅宗の寺院として建立されたという事は、貴族と結びついた旧宗教勢力に対し、武家との結びつきが強い新宗教勢力の優位性をさりげなく示した、とも考えられる。

しかし、尊氏が後醍醐個人に対して実際に明確な敵意を抱いたことは、ほぼ無かったような気がする。むしろ、後醍醐から疎まれれば疎まれるほど、尊氏は何とか後醍醐との関係を悪化させずに済む方策に苦慮していたような節もある。1335年の中先代の乱の後の後醍醐新政権との武力衝突時には、これを新田義貞の横暴に原因を求め、それを後醍醐に奏上したり、また、1336年の後醍醐との停戦協定と、その後の後醍醐の京脱出に伴う協定の一方的破棄にあたっても、尊氏の対応はかなり緩いものだったと思われる。

基本、伝統的な権威や文化を尊重しこれを好んだ尊氏自身に、後醍醐と争う意思は無かった。しかしながら、尊氏も当時の武家の感情や、その感情を具体的な行動に変え得る時勢に流されざるを得なかった、という事だったと思う。

一方の後醍醐にしても、死に際まで尊氏を憎み続けたと伝えられにしても、「尊氏は底の空いた盥の様に、いくら水を汲みいれても溢れることが無い。」と、尊氏の人間性を高く評価し、勿論、武家の統治には尊氏の力が必要という現実的な理由が第一だったと思うが、領地や官位の授与も含め、可能な限り尊氏を懐柔しようとしていた様子も窺える。

後醍醐にとって、武家としては教養が深く、貴族の文化にも理解があり、万事寛容というか妥協的な尊氏は、重宝な、ある意味可愛い存在だったかもしれない、ある時期までは。

こうして見てみると、尊氏と後醍醐の関係は、「憎んでも憎み通せず、惹かれてもままならぬ不幸な関係」と言わざるを得ず、それは、この時代の状況を端的に表しているとも言えるかもしれない。

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